梅津のソ連対日参戦促進工作 ②

広田弘毅元首相とソ連駐日大使マリクとの会談が45年(昭和20)6月3日から開催。マ
リクの要求で東郷外相が具体案を作成。29日マリクはこの案を本国に取次ぐと承諾し
たものの、その後広田の再三の会談申入れにマリクは病気を理由に応じません。

6月8日御前会議が開かれ、ドイツ降伏後も日本はあくまで戦争完遂と決定し、この
決定に不満な天皇は無言で裁可。

9日天皇満州・中国視察から戻った梅津参謀総長の「満州支那すべて合わせても米国の8個師団位の兵力しかありません」という報告に愕然とします。12日特命で視察してきた長谷川清海軍大将も、戦力の総てを無くした海軍の現状を率直に伝えます。

15日日米開戦以来はじめて天皇は病んで倒れ、その日は表御座所に姿を見せません。
それまでは陸海軍の言葉を信じ、本土決戦で一撃を加え、有利な条件で講和にこぎつ
けると考えていたのを、もうその時期ではないと感じていました。

6月24日スターリンレーニン廟の最高段に立って独軍の攻撃四周年記念を銘記する
赤軍の勝利行進を閲兵。26日スターリンソ連邦英雄として大元帥の称号を与えられ
、「各司令官はそれぞれの役割を遂行し日本の関東軍の占領する満州朝鮮半島を攻
撃目標とする。直ちに攻撃態勢に入るべし」と大元帥として初の命令を発しました。

この頃、スイス公使館附武官の陸軍中将岡本清福は、国際決済銀行理事のジャコブソ
ンを仲介にして、OSSのヨーロッパ総局長アレン・ダレスとの間で和平工作を画策。
岡本の必死の和平工作に米側も乗り気で、ダレスは岡本宛に「ポツダム会談までの間
に日本の和平承諾があれば戦闘の停止があること、但しソ連参戦前」と回答している。

この朗報もいつも通り参謀本部によって握り潰されました。


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