繆斌(みょうひん)工作

44年(昭和19)8月19日の最高戦争指導会議で決定された、満州国の現状維持以外の殆
ど全てを譲歩するという対重慶和平交渉は、国際情勢からみて実現性の薄いものだっ
たが、小磯首相は南京政府考試院副院長である繆斌工作に乗り出します。

この工作の路線は一方では、繆―朝日新聞田村真作―石原莞爾・国務相緒方竹虎を通
じて小磯へ、他方では繆から顧敦吉―戴笠を通じて蒋介石に繋がっているといわれる。

45年3月16日繆斌は単身来日します。18日午前繆・東久邇宮会談が行われ、これ以後
東久邇宮もこの工作に積極的に介入します。同日小磯・繆会談も行われました。

小磯は24日梅津美治郎参謀総長、25日は杉山陸相を招きそれぞれ協力を要請。しかし、
この工作を謀略とする外務省と、中国からの撤兵に反対する陸軍が反対してこの案は
葬り去られてしまいます。

この工作の中心的推進者であった緒方は、戦後もその真相究明に努め繆が重慶側のス
パイであったことは事実で、この和平工作蒋介石の諒解のもとに行われたことも事
実であったことが判明しました。

中国共産党との対抗から蒋は対日和平に乗り気であったが、共産派との関係から表立
った工作もできず、和平ブローカーと認められている繆なら、それが中途で失敗して
も、重慶政権は関知していないと突放せる、成功すれば拾い物と考えていたのである。

最悪の段階に臨んでもいかに陸軍中央が攻撃一辺倒の精神主義に凝り固まっていたか
、国際感覚ゼロであったか、想像力の欠如した独善的な考え方をもっていたか、一驚
しないわけにはいかない。


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