智将栗林中将の戦術

サイパン占領後、米軍は日本本土の戦略爆撃が可能となったが、2,500Kの距離では燃料切れを防ぐために爆弾の積載量が制限され、護衛戦闘機もつけられないので損耗が大きかった。硫黄島防衛司令官栗林忠道中将は米軍の次の目標は硫黄島と判断。

硫黄島は洞窟の多い地形で、洞窟と洞窟の間に深さ10m以上の地下道を堀り巡らし
ます。作業にはガスマスクを要する難工事であったが半年間に延長18K余の地下連
絡網を完成させ、45年(昭和20)正月には2万3千の将兵が地下に潜って来襲を待ちま
す。2月19日上陸前に米軍の495隻の8千発の艦砲射撃が行われ、日本軍に多大な
損害を与えたことを期待したが、それは全島に砂塵を捲き上げるばかりでした。

21日、神風特攻隊20機は空母サラトガを大破させ護衛空母1隻を沈めたが後が続き
ません。南部の摺鉢山の日本海軍予備隊は三昼夜にわたって山頂を取りつ取られつ戦
います。この時の山頂に星条旗を押し立てた像は、第二次大戦の最大の激戦の象徴と
して、ワシントンの無名戦士の墓地に建っています。

北部の日本軍は栗林の命令をよく守り無言でした。米兵が海岸から450m程前進し
たところを捉え一斉に集中砲火を浴びせ、米兵の死傷は25%にのぼり、戦車は50
%の28輌が擱座。米軍は夜の日本側の斬り込みを予期したが栗林は血気の勇を戒め
て、手榴弾によるガソリン集積所の攻撃を行い再び裏をかいて多大の戦果を収めます。

ニミッツ提督は毒ガスの使用許可を願い出るが、英国がヒトラーの報復を恐れて反対
したのでルーズベルトもこれを拒否。後の東京、広島、長崎の無差別爆撃の発端とな
ドレスデンの爆撃もドイツが報復能力を失ってから行われました。

3月17日栗林は総突撃の陣頭に立ち、27日に死んだが戦死か自決か伝える人はいない。その間21日東京は栗林を大将に昇進させたが、彼はそれを知ることはありません。全戦闘を通じて日本側の守備隊の殆ど全員が戦死、米側は死傷者2万9千人(内戦死7千人)。太平洋戦争中、米軍の損害が日本側を上回った唯一の戦闘でした。

  ああ あの顔であの声で 手柄頼むと 妻や子が       
               ちぎれる程に振った旗 遠い雲間に また浮かぶ
  ああ 堂々の輸送船 さらば祖国よ 栄えあれ
               遥かに拝む宮城の 空に誓った この決意
この「暁に祈る」は文才にも優れた栗林の作詞で、彼の隠れた作品の一つである。



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