ポツダム会談

広田・マリク会談に見切りをつけた最高戦争指導会議は、45年(昭和20)7月10日直接
にモスクワへ天皇の親書をもった使節団派遣を決定。その全権に近衛文麿を選任。近
衛はソ連不信、ソ連仲介には反対でただ皇室だけは安泰にしたいという気持でした。

和平仲介の交渉案要綱が近衛と酒井鎬次予備陸軍中将によって作成されます。ナント
そこには、「最下限沖縄、小笠原島樺太を捨て、千島は南半分を保有する程度とす
る」更に「賠償として一部の労力を提供することに同意す」と後のシベリア抑留を認
めているかのような文言が書かれていました。これは即ソ連に伝わり、ソ連内務省
日本軍捕虜50万以上受入れの準備をせよと下命します。

7月13日佐藤尚武駐ソ大使は、モロトフに会見を申込んだが、ポツダムへの出発準備
に追われてその時間がないと断られるが、18日日本の提議に具体性がなく、特使の使
命がハッキリしないから諾否を答えられないと回答。ソ連の態度には奇異の感を抱き
ながらも、ソ連の真意を全く察知していなかったのである。

原爆投下最終命令は7月24日(米時間)参謀総長代理ハンディ中将より戦略空軍総司令
官スパッツ中将宛てに出されます。その重要部分は8月3日以降速やかに落とせ、目
標は広島、小倉、新潟、長崎でした。

7月17日にポツダム会談が開かれ、26日英米中三国がソ連に相談することもなく、日
本に無条件降伏をつきつけるポツダム宣言を発出。スターリンは激怒し、モロトフ
国務長官バーンズに抗議。彼は「ソ連はまだ日本との戦争状態にはない、それで相
談しなかった」と軽くいなします。

27日米国の日本向け短波放送はポツダム宣言を発表し、「我々は近いうちに新型爆弾
を投下するだろう。日本軍人は早く降伏したほうがいい」とつけ加えます。この放送を秘かに聞いた立教大名誉教授武谷三男は、米国はウラン爆弾の開発に成功したと予測。

天皇ポツダム宣言を受諾するほかないと東郷外相に告げるが、政府は宣言書にソ連名が無いことから、「ソ連仲介依頼の返事を待っている時に、この宣言をのんで依頼を断る訳にはいかない」と無視を決定します。

28日16時鈴木首相は記者会見で「あの共同声明はカイロ会談の焼き直しにすぎず、た
だ黙殺するだけである」と述べます。首相は「ノーコメント」の意味で言った黙殺を海外新聞は「拒絶」と報じました。


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