非戦闘員への原爆投下

45年(昭和20)7月29日ポツダムでは、モロトフトルーマンを訪れ「日本がポツダム宣言を拒否していることであり、連合国が正式に対日参戦についてソ連政府に申入れることが最善の方法であるとソ連政府は考える」と言い出します。

31日トルーマンは署名のない覚書で、まだ批准のない国連憲章をもち出して「国連憲章103条を根拠にして日ソ中立条約を侵犯できる」と回答。つまりルーズベルトスターリンに要求した対日参戦を、トルーマンは要求はおろか依頼さえしません。

30日参謀本部では激論が戦われました。ソ連課長白木末成大佐のソ連の参戦は時間の
問題とする発言に、ソ満国境にソ連軍が大集結しているのを見ても、戦争指導課長種村佐孝大佐は「スターリンはすぐ出てくる程馬鹿ではない、日本に永遠の恨みを買うような参戦は絶対ない」と一蹴。これも陰湿・確実な梅津工作の成果なのである。

8月6日広島の朝は蒸し暑く雲一つない快晴でした。8時15分B29エノラ・ゲイから原子爆弾が投下されました。爆弾は地上570mで爆発、爆心地から半径500m以内の人々や住宅は3千〜4千度の高熱で焼き尽され、45年11月時点の死者78,150人、行方不明13,983人、負傷者37,425人と発表されました。その後、原爆症という不治の病に侵され、戦後67年経過した現在も死者の列は続いています。

この非戦闘員に対する大殺戮は永久に許されることはない。キリストも許さないであろう。反面海外特に中国・朝鮮・フィリピン・シンガポール等で日本軍の犯した蛮行も許される筈もない。戦争とは憎悪の連鎖生産だけで、国富と国民生命の大浪費なのである。

日本政府が原爆被害に恐怖しアッサリ降伏するのではないかと惧れたスターリンはモスクワ時間の7日16時半「8月9日朝、満州との国境を越え攻撃を開始すべし」の極秘命令を発します。8月11日予定は強引に繰上げられたのである。

原爆が投下された8月6日スターリンはクルチャートフ以下5人の原子物理学者を呼んで「費用はいくら掛っても構わない。できるだけ早く米国に追い付かねばならない」と厳命。粛清の鬼秘密警察長官べリアが原爆製造研究所の総指揮官に秘かに任命され、米ソの核兵器競争が始りました。


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