中ソ合意前の対日参戦だった!

45年(昭和20)8月8日モスクワ時間17時、駐ソ大使佐藤尚武はモロトフ外相と面談。和平仲介の回答と信じた佐藤に渡されたのは「ポツダム宣言を拒否した故に、和平仲介を依頼する基礎は失われた」とする宣戦布告でした。日本の和平仲介依頼は、ポツダム宣言の前ではないか。その上、佐藤が日本大使館に戻る前に、電話線は切られ無線機も没収されて佐藤は通常の国際電報でソ連参戦を外務省に伝えるほかありません。

8日モスクワ時間20時、モロトフは記者団に「約束を厳格に守った」と強調し「ソ連政府は連合国の提案を受理し、7月26日の連合国宣言に参加せり」と対日参戦布告の理由としました。これは事実に反する強弁である。連合国の提案は半ヵ月前ならともかく、この時期にはなされていないのである。

更に、ソ連の対日参戦の前提条件である中国との合意が成立しないうちに、スターリ
ンの参戦決定が下され、日ソ中立条約と国際法をも無視した暴挙にほかならない。

ヤルタ秘密協定でルーズベルトが中国に無断でソ連に譲渡した満州利権につき、6月
トルーマン蒋介石ソ連との友好条約締結をすすめ、7月1日より中ソのモスクワ
会談が開始されました。

ポツダム会談で一旦中断するが8月7日に再開され、難航に難航を重ね中国側は多く
の譲歩をして、中ソ議定書が調印されたのはソ連満州攻撃開始後の8月14日である。

スターリンは「ソ連政府は中国に精神的支持、軍需品その他の物質的援助を与える用
意がある。この支持と援助は国民政府に与えらるべきものである」と発言。中国代表はスターリン中国共産党(毛沢東)と縁を切ることを固く約束したものと解釈してしまいます。

米国の原爆攻撃で日本の降伏が目睫に迫り、スターリンは米国の独占は許せないこと
とし、戦勝の分け前を多く奪いとろうとして宣戦したのである。

侍従武官吉橋戒三中佐の8月9日の日記に「宮中でソ連極東地誌及び秘密書類3冊発見せられず」とあり、その書類が8月12日に戻ってくる。「真に晴々とした気持となると共に一方心外に堪えざる点あり」とあります。この詳細は現在に至るも不明である。


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