関東軍総司令部の早すぎる退却

45年(昭和20)7月1日大本営陸軍部作戦課の瀬島龍三中佐は関東軍参謀に転出。新京
(現在の長春)の関東軍司令部とハルビン近郊の731部隊との間の連絡係で、竹田宮
(宮田参謀)と瀬島参謀の交代人事は、皇族が細菌戦に関与していたことの配慮でした。

しかし瀬島の異動と、同年4月参謀次長だった秦彦三郎中将が関東軍総参謀長に異動
していることを考えあわせると、梅津参謀総長による口封じ人事と思わざるを得ない。
尚、8月10日731部隊の石井四郎軍医中将は、参謀総長からの「一切の証拠物件は、
永久にこの地球上より雲散霧消すること」という指示を受け、それを即実行します。

関東軍は7月10日、青年義勇隊を含む在満の適齢男子40万のうち、行政・警護・輸
送等の要員15万人を除いた約25万人の根こそぎ動員をかけます。師団長には日本
本土から予備役召集の老将軍が着任。富永恭次も召集され、将兵70万人に達します。
戦車は約160輌、飛行機は約150機。

根こそぎ動員兵には老兵が多く、銃剣なしの丸腰が10万人もいました。召集令状
「各自出刃包丁類及びビール瓶2本を携行すべし」とあり、出刃包丁は棒にしばって
槍とし、ビール瓶は戦車体当り用の火炎瓶で、銃を持つ者は弾丸100発と制限。

ソ連軍は輸送途中の部隊や後方部隊を含め将兵157万7千名、大砲・迫撃砲2万6千門、戦車・装甲車・自走砲5,500輌、戦闘機・爆撃機3,400機、これに海軍の飛行機1,200機が掩護の役を担うという陣容でした。

戦闘2日目の8月10日朝、新京の関東軍総司令部では重大な決定がなされます。その
一は明11日夜総司令部は250K南の通化に移転すること。その二は、居留民婦女子
を後送し、満州国皇帝と政府とを通化に移すことである。つまり満州を放棄し持久戦
によって朝鮮を防衛せよという大本営命令でした。

通化には縦深陣地はおろか通信設備など指揮中枢の設備さえなく、このため、前線の
各兵団と総司令部との連絡は途絶してしまいました。

新京の居留民の避難輸送は11日正午までに18列車が新京駅を離れました。避難でき
た者は新京在住14万のうち約38,000人。内訳は軍関係家族20,310人、大使館等の関係家族750人、満鉄関係家族16,700人、一般市民240人でした。


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