天皇の軍隊・国体護持軍

45年(昭和20)8月10日の関東軍総司令部の満州放棄によって、根こそぎ動員で老人や
婦女子だけとなった居留民や開拓団は満州全土のいたる処で、無防備のまま放りださ
れ、その彼等をソ連軍が急追。現地の中国人も仕返しに匪賊の如く襲いはじめます。

14日昼近く天皇が「国民の生命を助けたい」と降伏の決断を下した頃、満州西部興安
嶺の小高い丘の多い草原で、白城子をめざして避難してきた2千余の婦女子が、新京
をめざすソ連軍機甲部隊に追いつかれてしまいました。

飢えと疲労で何日も歩き続けてきた人々は、中型戦車14輌に蹴散らされ、轢き潰さ
れ遮蔽物のない草原は射場と化します。後続の自動車隊から降りたソ連兵が、幼児と
雖も情け容赦もなく、既に屍になっていようがマンドリン(自動小銃)を射込みました。

ソ連兵や武装匪賊の度重なる襲撃ですべてを奪われ、乞食以下となった開拓団の人々の集団自決が至る所で始まります。生命を守ってくれる軍隊に逃げられ包囲されて脱出の望みを絶たれた人々にとって残された自由は死だけでした。忍耐の限界を超えると生きることは苦痛となっていくのである。

20日新京ではソ連軍が戦車隊を先頭にのり込みます。続いてソ連兵を乗せた米国製の
ジープやトラックが陸続と入京。ソ連兵や一部の中国人は争うようにして日本人を襲
います。殺人、強姦、略奪は連日連夜行われ軟禁同様の関東軍は無力の存在となりま
す。満州での日本民間人死者は自決を含め17万6千名にのぼる。日ソ中立条約を一方的に破りソ連兵の犯した残虐な蛮行はトルーマンの原爆投下に勝るとも劣らない。決して忘れまい!

ドイツの敗北を予見した海軍元帥デーニッツは、降伏の4ヶ月前から水上艦艇の全部
を、東部ドイツからの難民や将兵を西部に移送するために投入し、ソ連軍の蹂躙から
守りました。西部へ運んだドイツ人同胞は200万人を超えたという。日本政府首脳の無策・無能思うべし。

敗戦を覚悟した国家が全力をあげてすべきことは、非戦闘民の安全を図ることにある。
その実行である。日本の軍隊は国民の軍隊ではなく天皇の軍隊・国体護持軍であった。

岡崎久彦は「ソ連邦解体後のロシア人が言っていることは、共産主義は政権の非人道性の惨害をロシア人自身が被っていた」とも言ってます。つまりロシア人はスターリン一人に責任を押付けようとしているのである。


レース結果共鳴チェック