張作霖爆殺事件----①

1926年12月北京に陣取る軍閥は「北方安国軍」を組織して張作霖大元帥の地位に就いた。日本政府は27年5月〜28年4月邦人保護を口実に山東半島に出兵し蒋介石・国民党軍の北伐に武力干渉した。28年4月国民党軍は欧米の支援を得て態勢を立て直して再度北京に迫った。日本政府は張作霖が敗北することで、奉天に逃げ帰り満州がそのまま戦場になることを恐れ、芳沢謙吉公使に再三に亘り張作霖奉天引上げを勧告させた。張作霖は不満だったがその説得に応じた。

28年6月4日早朝、国民党軍との決戦を断念して奉天へ引上げる途上の張作霖の乗る特別列車が、満鉄線との立体交差地点を通過中、上方満鉄線の橋脚に仕掛けられた爆薬が爆発。列車は大破炎上し鉄橋も崩落した。張作霖は統帥府に担ぎ込まれた時には絶命していたという。そして警備、側近ら17名も死亡した。6月9日国民党軍は北京に入り南京政府による南北統一が成った。

満鉄の橋台にこびり付いていた火薬は国民党軍が持っていない日本軍用の黄色火薬であり、南方の志士と称する死体はアヘン中毒患者であることが判明。その所持する暗殺趣意書は日本式の漢文であった。決定的となった証拠は爆薬と爆破スイッチを結ぶ電線が、橋台から離れた関東軍の鉄道監視所の内に引き込まれていたことである。

陸軍中央は6月26日関東軍高級参謀・河本大作大佐を呼び寄せて取調べたが、河本は事件への関与を否定した。張作霖の抹殺を望んでいた陸軍中央は強く追及することなくその釈明を信じ、関東軍は事件と無関係であるとの報告を田中義一首相に行った。河本は取調べには真相を隠し通したが、河本が上京したその日に同志的上司荒木貞夫作戦部長、小磯国昭航空本部総務部長それに盟友の小畑敏四郎作戦課長には真相を告白していた。

関東軍参謀長・斎藤亘が参謀本部に提出した文書には「爆薬は破壊せし車両及び鉄橋被害の痕跡に照らし橋脚上部附近か、又は列車自体に装置せられしものなること、略推測に難しとせず」とある。また奉天領事・内田五郎が支那側との共同で調査した結果を6月21日付で爆薬の装置場所を「張作霖が爆発時に居た展望車後方部か食堂車前部附近の車内上部、又は高架橋脚の鉄桁と石崖との間の隙間に装置したと認められ、電気仕掛けにて爆発せしめたるもの」としている。

加藤康男氏は英国公文書館から次の史料を発見した。英国のM I 6諜報員だった駐日大使館付武官ヒル大佐の28年12月15日付英国外交部宛ての文書には「爆弾は張作霖の車両の上部又は中に仕掛けられていたという結論に至った。ゆっくり作動する起爆装置、ないしは電気仕掛けで点火されたと推測される。ソ連にこの犯罪の責任があり、犯行のために日本人エージェント(つまり河本大作等)を雇ったと思われる」と書かれているのである。

田中首相は河本等を厳罰処分する方針を天皇に奏上した。しかし事件をウヤムヤにしたい陸軍等の要求に負け、河本は軍法会議にかけられることもなく、29年4月予備役に編入された。同年5月6日田中は犯人不明のまま責任者の行政処分のみを実施する旨を奏上したため天皇が激怒。6月27日田中は天皇に最終報告したが「責任をハッキリさせよ、辞めたらどうか」と言われ7月2日内閣は総辞職した。しかし軍部には全くお咎めなしだったため、これが軍部独走のキッカケとなるのである。

東京裁判で検察側証人として出廷した元陸軍少将・田中隆吉は「張作霖事件は河本大作大佐の計画で実行された」と証言した。パール判事は「田中証言は全て伝聞証拠に過ぎない」と断定している。この当時河本は支那大陸国共内戦で閻錫山の国民党軍に協力して、中国共産軍と戦っていたのだから河本本人に証言させるべきであった。しかし東京裁判戦勝国のリンチであり史実はどうでもよいのだ。東京裁判以降、世界最大の侵略国家米国によって日本は犯罪国家・侵略国家に貶められてしまった。


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