21ヵ条要求の顛末----③

1914年に世界大戦が勃発すると米国の工業は軍需景気に沸いた。莫大な物資の輸出によって、19世紀末の鉄道ブーム時代から累積した対外債務を一掃し世界最大の債権国となった。大戦終結後、帰還兵による住宅ブームや大量消費、特に自動車やラジオ等の新技術による製品の需要の高まりを背景に米国経済は躍進し、世界経済の中心となり国際金融もロンドンに並んだ。

米国大統領ウイルソンが提唱した民族自決は、ロシア革命及び敗戦したハプスブルク帝国解体によって空白となった東欧地域が独立の主体となり、オーストリアハンガリーチェコスロヴァキアフィンランドエストニア・ラトヴィア・リトアニアポーランドユーゴスラヴィアが独立国となった。ウイルソンは列強諸国の植民地にも自決権を与えるよう主張したが、戦勝国英・仏が反対した。尚、オスマン帝国の解体はイラクパレスチナ・トランスヨルダンは英の、シリア・レバノンは仏の委任統治となった。

1919年7月と20年10月の2度に亘り、ソビエト支那を共産化するためにカラハン宣言を出した。それは日露戦争の秘密協定を暴露しかつ無効とする内容であった。ソ連は日本を満州から追出すため、女真族の地満州支那の領土だと認め支那を味方に引き入れたのである。実際支那人ソ連に一気に同調した。その結果、19年から10年間に共産パルチザンのゲリラ事件は108件も発生した。日本の援助が途絶えた孫文ソ連の援助を受入れ24年1月 共産党員の資格のまま国民党員に吸収するという国共合作を行った。    

1921年11月12日ウォレン・ガマリエル・ハーディング米国大統領は、日本を列強から排斥・孤立化させるためのワシントン海軍軍縮会議を開催した。高橋是清内閣から海相加藤友三郎全権への暗号電を傍受・解読されたことで会議は米国有利に展開した。米国は「日英同盟の仮想敵国たるロシアが滅亡した現在、この同盟は米国を仮想敵国とする他は存在意義が無い」と強い不信感を表明し、同年12月13日 日本にとって全く役に立たない日・米・英・仏四ヵ国条約が結ばれ日英同盟は廃棄された。結局、英国が凋落した会議ともなった。

1922年2月6日支那対8ヵ国による支那の主権・独立・領土・行政の保全尊重を柱とする9ヵ国条約が成立した。これを受けた日本と支那の二国間交渉により、ドイツから奪った山東利権の大半が支那に返還された。また支那は日本の満蒙権益についても強硬に反対した。世界に民族自決の嵐が吹きまくったこの時、日本政府はこのチャンスを生かして、大陸進出だけでなく台湾も朝鮮半島南樺太も、すべて譲渡あるいは放棄して専守防衛に徹するべきであった。

あのナポレオンもスペインのゲリラ戦法には勝てなかったことを思い出して貰いたかった。日本政府は大きな犠牲を払った20年3月の尼港事件から何も学ばなかったのである。22年6月首相となった加藤はこの軍縮条約に従って軍艦14隻の廃棄や海軍軍人のリストラをすすめ、陸相の山梨半造は陸軍の軍縮を断行した。加藤は病身で議会への出席もままならず、23年8月24日現職のまま大腸癌で死去した。そしてワシントン会議に呼ばれなかったソ連軍縮埒外に置かれたのである。

張作霖は満鉄併行線敷設禁止協定を無視して、27年7月満鉄の西方に打通線を、同年9月満鉄の東方に奉海線を完成させ格安運賃で運営し日本の満鉄経営を根底から脅かした。この鉄道敷設資金を提供したのが米国である。張作霖の死後、31年には米国は対日戦争に備えて、戦車100台・飛行機数十機・弾丸100万発の生産能力を持つ兵器工場建設の資金援助を行い、満州における影響力を増大させていった。

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