21ヵ条要求の顛末----②

世界大戦中の1917年11月7日 FRBを設立して米国を支配したロスチャイルド等金融資本家によるロシア革命が成った。これで米ソ蜜月がスタートした。しかしそれを隠蔽するために彼等は米ソ冷戦構造を構築して世界を欺いた。戦争ビジネスと世界人口削減のためである。翌8日レーニンは無併合・無賠償・民族自決の和平を全交戦国に訴える「平和に関する布告」を宣言した。ドイツはこれに応じて交渉に入るが連合国は黙殺した。そこでレーニンは旧政権の秘密外交文書を公表し、各列強の帝国主義的な本性を暴露した。

これに呼応して1918年1月8日米国大統領ウイルソンは大戦終結のための「平和原則十四ヵ条」を発表した。特に秘密外交の廃止や民族自決が強調された。両首脳は民族自決を謳っているが、ロスチャイルド等はこの時既に、列強の植民地支配(プランテーション)を終わらせ、金融資本による世界制覇、国境を越えたグローバルな株主資本主義、つまり有色人種を低賃金で酷使する利益の最大化を目論んでいたのである。

1918年1月英国はウラジオストクにある軍需品がドイツに渡るのを防止するため日本軍の派兵を提案した。これを米国が反対したため日本はこの提案を拒否。同年3月3日ドイツとソ連の前身であるボリシェヴィキ政府は講和を結んだ。この条約によりロシアは世界大戦から離脱し、ドイツは全兵力を西部戦線に投入することになった。同年5月中旬ロシア軍と共に闘っていたチェコ軍は西シベリアとウラルのボリシェヴィキ政権を倒した。これを援護すべく英仏は再び日本にシベリア出兵を要請。米国の意向を知悉する日本はこれも拒否した。

そこで英仏はウイルソンを説いて日米共同の出兵を促した。米国もこの出兵要請を受入れ1918年8月上旬、日本12,000人・米7,950人・英1,500人・加4,192人の軍をウラジオストクに派遣した。支那も出兵を申出て軍を送りイタリアもそれに続いた。日本軍は増員して72,000人となり、沿海州から西はバイカル湖を越えイルクーツクやチタまで、延べ22万人の派遣となった。18年11月3日ドイツ帝国は崩壊し休戦を受諾。11月11日ドイツの臨時政府代表がパリのコンピエーニュの森で調印し、世界大戦は終了した。

米軍は日本軍に非協力的で20年4月までに撤兵した。日本軍は単独駐留を続け22年8月26日から撤兵を開始したが、ロシアのみならず連合国からも領土的野心を疑われた。20年3月〜5月にかけてロシア人3,000名、朝鮮人1,000名、中国人300名からなるパルチザン(共産ゲリラ)が日本陸軍守備隊及び日本人居留民約700名、日本人以外の現地市民6,000人を虐殺し町を焼払った。(尼港事件) それが撤兵の遅延となった。

日本がシベリア出兵した4年3ヶ月間の最大の貢献は、シベリアに餓死者を出さなかったことである。19年〜25年にウクライナなどソ連邦の西側では1,000万人以上が餓死している。日本軍はシベリアの食糧に関して、ボリシェヴィキと協調して円滑に流通させたのである。また反革命派のロシア人達の脱出にも貢献している。18年の日本への亡命者数は7,251人に達する。スタルヒン大鵬の父親、チョコレートで有名なモロゾフ等はそのまま日本に永住している。

また、ロシアはポーランド政治犯をシベリアに流刑したため、ロシア革命の混乱と18年11月のポーランド独立によってポーランド孤児がシベリアに取残された。その惨状を知った日本軍は800名のポーランド孤児を救出し祖国に帰還させた。孤児を救った51名の日本軍将校に対し、ポーランド政府は25年ヴィルトゥテイ・ミリターリ勲章を授与してその功績に報いた。

1919年1月18日に開催されたヴェルサイユ宮殿の講和会議で日本側は日華条約の正当性を主張したが支那側は「中華民国戦勝国である」と強硬に拒否。米国を除く列強の賛同でヴェルサイユ条約山東権益の日本への譲渡が明記されると、北京の学生数千人が同年5月4日ヴェルサイユ条約反対や親日派要人の罷免を求めてデモ行進した。これに呼応した各地の学生も全国的な反日・反帝運動を繰広げた。(五・四運動)その広がりの過程で日貨排斥運動へと性質を変え、日本人となった朝鮮人を含む邦人への襲撃が続発し、死傷者が増大した。この度重なる米支の挑発が満州事変勃発の一っの要因となる。


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