21ヵ条要求の顛末----①

ドイツ陸軍がベルギーに侵攻したことを確認した英国は、1914年8月4日ドイツに宣戦布告した。 (第一次世界大戦) 8月7日英国は膠州湾を拠点とするドイツ艦隊を撃破して欲しいと日本に要請。ところが米国が反対したためこの要請は取消された。その後日英の折衝を経て、英国は日本の参戦地域を限定しないことを認め、日本政府は8月15日ドイツに最後通牒を行った。ドイツはこれに回答せず日本は同月23日に宣戦布告した。

日本海軍は9月までに、太平洋のドイツ植民地だった南洋諸島のうち赤道以北のマリアナ諸島カロリン諸島マーシャル諸島を占領した。11月7日日本陸軍と英国軍の連合軍は、ドイツ東洋艦隊の根拠地であった中華民国山東省の青島と膠州湾の要塞を攻略した。さらに英・仏・露から日本陸軍をヨーロッパ戦線に派遣するよう再三要請されたが、加藤高明外相は「国益に直接関与しない外征に参加させることはできない」と声明を出した。しかし日本はインド洋に第一特務艦隊を派遣し、英・仏の輸送船団の護衛を受け持った。

1915年1月日本は対華14ヵ条の要求と7ヵ条の希望を出した。日露戦争後日本と清国が決めた条約を国が変った中華民国に継承して貰うためである。その内にドイツから奪った権益が含まれていたため紛糾した。5月9日袁世凱は修正を加えた16ヵ条(日華条約)に調印した。米国の宣教師等に煽られた支那国民はこの日を国恥記念日とした。

日教組は「日本政府は世界大戦のドサクサに紛れて支那に21もの不当な要求をして渋々認めさせた」と教育しているが、実は米国が支那と謀って支那の国内世論を沸騰させ、世界に日本の要求を誇大に吹聴して反日感情を煽るためのプロパガンダであった。その証拠がある。駐支米国公使ポール・ラインシュの本国への報告書に「支那側は譲歩すると約束したよりも要求が遥かに少なかったので、最後通牒の寛大さに驚いた」と記している。

また加藤外相自ら「条約の最後通牒は、譲歩する際に支那国民に対して袁の顔を立てるために、袁に懇願されたものである」と認めている。米国外交官ラルフ・タウンゼントも「日本側は高圧的な態度に出るふりをした。それで支那人は不承不承署名するという風にしたのである。裏でかなりのお金が動いたであろう。支那の交渉ごとは金次第だからである」と述べている。

袁世凱は15年6月22日 日本人に土地を貸した者は、裁判なしに死刑に処するという懲弁国賊条例を公布した。袁は日華条約を履行する気など全く無かったのである。17年1月〜3月 英・仏・露は山東と赤道以北の南洋諸島のドイツ権益を日本が継承することを秘密裡に承認した。同年2月日本海軍は計18隻の駆逐艦を地中海に派遣した。地中海における戦闘で日本海将兵78名が戦死した。

1917年4月6日米国はドイツの無制限潜水艦作戦を理由に参戦した。本当の理由は米国が持つ対英・対仏債権が焦付いては困るからである。また米国は支那の段祺瑞政権に参戦を強く要求し、同年8月14日段は独・墺に宣戦布告した。支那は事実上戦闘には不参加であったが、戦後は戦勝国として不平等条約の改正等の果実を得た。だから習近平は闘ってもいない抗日戦勝70周年記念に血道を挙げるのである。国連の常任理事国だったら国際ルールを守り給え!

日本は陸海軍ともに国際法を遵守し、青島で捕えたドイツ軍捕虜約4,700名を丁重に遇した。545名が移送された広島の似島検疫所では、菓子職人のカール・ユーハイムバウムクーヘンを焼きあげ、産業奨励館(現在の原爆ドーム)で実演販売を行った。徳島の板東収容所では、ドイツ料理やビールなど数多くのドイツ文化が伝えられ、ベートーヴェンの「交響曲第9」も演奏された。


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