戦争に勝利したら四面楚歌

日露戦争(1904年〜1905年)後、日本と列強との関係に大きな変化が生じた。その第一は講和条約締結の斡旋の労をとった見返りとして米国は鉄道王ハリマンを派遣して、南満州鉄道の共同経営を提案させた。桂・ハリマン覚書が取交されたがポーツマスから帰った小村寿太郎は「9万人の戦死者と19億円の戦費で勝ち取った満鉄の利権を米国と分け合うとは一体何を考えているのだ!」と激怒し、この覚書を破棄させた。歴史の転換点に情緒的思考を持ちだすのは日本人最大の欠点である。ロシア南下阻止が戦争目的だった。目的が達成された以上、満州利権などは300億円位で売却すべきだったのである。

ハリマンは「日本は10年後に後悔することになるだろう」と言い放ったという。1906年日本を仮想敵国とする米国海軍の「オレンジ計画」が策定された。1908年には戦艦6隻の世界一周米国親善大艦隊の横浜寄港がある。明らかな砲艦外交の発動である。余談だが、日露戦争の戦時国債を引受けたジェイコブ・シフのクーン・ローブ商会は1977年リーマン・ブラザーズに吸収合併されたことを銘記しておきたい。

そして第二はロシア帝国満州北部に撤退し、日露協商体制が整ったことである。第三は清帝国の直隷総督、北洋大臣・袁世凱が日本政府の南満州利権の回収を強硬に要求し始めたことである。その結果、満州への進出を欲する米国が支那に接近し、日露 対 米支という構図が出現した。しかしロスチャイルド等が仕組んだ1917年のロシア革命ロマノフ王朝が滅亡した後は、日本は四面楚歌となる。米国政府が親ソを隠蔽し反共を装い続けたのである。

1911年10月に辛亥革命が起り、12年1月清王朝は滅亡し中華民国が成立する。支那民族独立運動を続けていた孫文が臨時大統領に選ばれたが、謀略家・袁世凱に権力を奪取されてしまう。15年袁世凱は自ら帝位に就いたが反帝政運動が起って失脚、16年6月憤死。支那全土は軍閥割拠の混沌状態に陥り、内戦は1928年12月に国民党の蒋介石による北伐完成まで続く。

山本権兵衛は陸主海従の国防方針を海主陸従に転換すべく画策した。その一策として1899年佐藤鉄太郎大尉を一年半英国へ、次いで米国に8ヵ月留学させた。1902年栄進した佐藤少佐は「帝国国防論」で「島国である日本は海主陸従でなければならない。英国は大陸征服に向かわず富を海外に求め繁栄している。侵略征服する国は必ず滅びることは歴史が証明するところである」と論じた。1909年佐藤大佐はさらに「帝国国防史論」を出したが、陸軍の長老・山縣有朋はこれに激怒した。

山本権兵衛時代の海軍は一貫して大陸進出に反対した。1913年には東洋経済新報が満州放棄論を唱え、小日本主義(軍備拡張を避け国内開発を優先する)を打出した。同年2月20日に発足した山本内閣は陸軍の増師を拒否し海軍増強案を示したが、14年1月ドイツでの恐喝事件裁判の被告から日本海軍への贈賄が暴露され(シーメンス事件)同年4月山本は退陣し予備役編入となり、大陸進出論は再び勢いを取り戻した。

しかし15年から海軍大臣、22年〜23年まで首相兼海相となった加藤友三郎大将も大陸進出論には反対を続けた。加藤病死を受け再び山本権兵衛が組閣中の23年9月1日関東大震災に襲われた。山本は普通選挙の実現、財政緊縮、陸軍軍縮、日ソ国交回復等を掲げたが、帝都復興事業が焦眉の急となった。前年の2月には山縣有朋が「黄禍論」に苦悶しながら死去している。このチャンスに山本は大震災からの復興を理由に満州撤退を公表・実行すべきであった。結局、山本も小村寿太郎同様、大衆に阿ねてしまった。

以下は2004年6月に書かれた「竹村健一の視点」の要旨である。沖縄返還交渉の過程で、尖閣列島周辺の海底に油田があるという話が持ちあがり、米国の石油メジャーは石油資源共同開発を打診、佐藤栄作首相は自国日本のことだからと言ってこれを退けた。その後、石油メジャーは台湾政府を説得して「尖閣諸島周辺海域の採掘権」を取得。1971年6月台湾政府は尖閣諸島の領有を主張し、同年12月中国政府も尖閣諸島の領有を主張し始める。ロックフェラーの仕業である。だからこそ日本人はFRB打倒に立ち上がらなければならない。


レース結果共鳴チェック