旅順虐殺は米人記者の捏造

1894年12月11日ジェームス・クリールマンは、発行部数を増やすために敢えて扇情的な記事を売物にするイエロー・ペーパー「ニューヨーク・ワールド」に次の記事を寄稿した。「日本軍は11月21日に旅順入りし、冷酷に殆ど全ての住民を大虐殺した。無防備で非武装の住民達が自らの家で殺され、その身体は言い表す言葉がないくらい切り刻まれていた」

94年11月22日には日米間で不平等条約改正となる日米通商公海条約が結ばれており、米議会上院はそんな野蛮な国との条約は破棄すべきとの声が上がり、駐日米国公使エドウィン・ダンに事件の調査を命じた。ダン公使は旅順攻防戦を見ていた観戦武官に報告を求め現地にいた人物からも証言を取り、それらを総合してクリールマンが伝えるような民間人虐殺は無かったと結論付けた。1895年2月日米通商公海条約は、無事批准された。

また駐日ベルギー公使アルベール・ダネタンは事の真偽を確かめるべく調査に乗出し、結局米国記者による捏造であったことを突き止め、本国ベルギー政府に次のような報告書を提出している。「私はそこに居合わせたフランス武官ラブリ子爵に会ったが彼は私にこう断言した。殺された者は軍服を脱いだ兵士達であり、婦女子が殺されたというのは真実ではないと。旅順港占領の数日前に殆どの住民は避難しており、町には兵士と工廠の職工達だけであった。日本兵は無惨に扱われた戦友の死骸を見ながら何とか敵を捕虜にするだけにとどめた」

旅順攻略後、現地行政庁の行政官になった鄭永昌は「支那兵が旅順に駐屯するや、ほしいままに民家に乱入し家具を破壊し財産を略奪せし者少なからず、故に日本軍の進撃せし時は旅順市街すでに空虚なり」と報告している。旅順の支那兵12,000の内9,000が新募兵であったため、士気が低下し軍律も乱れていた。退却の際には軍服を脱ぎ奪った衣服を着て民間人を装うことは、成歓の戦いや平壌の戦いでも繰返えされていた。宮崎正弘氏によれば支那の泥棒は「泥棒!」と叫びながら逃げるという。

フランスの国際法学者ポール・フォーシーユは「この戦役に於いて、日本は敵の万国公法を無視せしに拘らず、自ら之を尊敬したり。日本の軍隊は至仁至愛の思想を体し、常に慈悲を以て捕虜の支那人を待遇し、敵の傷病者を見ては未だかって救護を拒まざりき。 (略) 又敢えて敵抗せざる住民の身体財産を保護することに頗る注意を加えたり。日本はいずれの他の国民も未だかって為さざる所を為せり。

其の仁愛主義を行うに熱心なる、遂に不幸なる敵地住民の租税を免じ、無対価にて之を給養するに至れり。兵馬倉皇の間に於いても人命を重んずること極めて厚く、凡そ生霊を救助するの策は挙げて行わざるなし。見るべし日本軍隊の通過する所必ず衛生法を守らしむるの規則を布きたるを」と日本軍を絶賛している。

旅順虐殺捏造記事で名を馳せたクリールマンは1895〜98年の第二次キューバ独立戦争に際し、スペイン軍の残虐性を誇張して書きたて米国民のスペインに対する憎悪を煽った。98年2月15日米国政府は、米国海軍戦艦メイン号爆破を自作自演、266名の犠牲者を出して米西戦争を開始した。勿論、この戦争を仕組んだのも米国政府を操るロスチャイルドやロックフェラー等、戦争屋である。

1894年11月便衣兵の遺体は集団で焼かれ、骨灰は白玉山東麓に埋葬され「清国将士陣亡之墓」と墨書した木碑が建てられた。1896年堤調官・顧元勲は埋葬者の墓碑、廟を建造し、日本兵による大虐殺として碑に「万忠墓」と刻んだ。その後、数回の修復を経て日清戦争100周年を迎えた1994年 国家主席江沢民は万忠墓を修築し反日を目的とする万忠墓記念館を建立した。


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