張作霖爆殺事件----②

ロシア人歴史作家ドミトリー・プロホロフによれば、「張作霖は日本の支援で満州を支配していたが、ソ連張作霖1924年9月『中国東北鉄道条約』を結んでいた。しかし、鉄道使用代金の未納が1,400万ルーブルに及び、ソ連は26年1月鉄道使用禁止を通達した。同年9月張作霖は鉄道を実力で占拠し、鉄道管理官を逮捕した。

スターリン張作霖の暗殺を軍特務機関のフリストフォル・サルーニンに命じた。これにソ連参謀本部情報総局(GRU)のレオニード・ブルラコフが協力した。暗殺計画は26年9月末の奉天張作霖宮殿で挙行される音楽会が目標とされた。しかしこれは張作霖の特務機関が察知し、地雷は押収されブルラコフ等3人が逮捕された。

27年4月張作霖は北京のソ連総領事館強制捜査を行い、武器・暗号表・工作員リスト等を押収した。さらに支那共産党員を多数逮捕し、28年日本と交渉を始め満州に反共・反ソの独立した満州共和国を創設しようと画策した。スターリンソ連合同国家保安部の諜報員ナウム・エイティンゴン(40年8月のトロツキー暗殺を指揮)とサルーニン(前出)に日本軍の仕業に見せかけた暗殺指令を発した」と言うのである。

河本大作の狙いは、張作霖抹殺により中小の軍閥を四分五裂させて満州の治安を撹乱し、関東軍が出動して満州を武力占領することにあった。治安が乱れていることを証明するために張作霖が北京で暗殺されてはならず、彼が支配する本拠地・奉天で暗殺されなければならなかったのである。だから、ソ連諜報員による確度の高い客車内爆殺に賛同した河本は彼等の要請を受入れて、関東軍の犯行と思われるようにバレバレの証拠を残したのではないだろうか?

私は、陸海軍を統帥する天皇田中義一首相を辞めさせずに特別裁判を開かせ、売国奴河本だけでなく関東軍司令官・村岡長太郎中将や黒幕である参謀本部作戦部長・荒木貞夫中将を徹底的に追及して極刑に処すべきであったと思っている。しかし、明治憲法第三条に「天皇ハ神聖ニシテ侵スへカラス」とある。即ち天皇には政治的な責任は一切ないという意味で、裏返せば天皇は政治的な判断を一切しないということであり「立憲君主は君臨すれど統治せず」なのである。

昭和天皇独白録で天皇は「この事件あって以来、内閣の上奏するところのものは、仮令自分が反対の意見を持ってゐても裁可を与えることに決心した」と述べられている。1936年の二・二六事件で怒りを露わにした天皇は「老臣達を悉く倒すは朕が首を真綿で締めるに等しき行為ではないか」「お前達がやらぬなら朕自ら近衛師団を率いて鎮圧に当たらん」と発言された。この時の発言と大東亜戦争終結のご聖断とあわせて「立憲君主としての立場を超えた行為であった」と語られている。

張作霖事件で天皇だけが行使できる統帥権を行使しなかったことで、統帥権は軍部が立て籠もる最大の政治的な砦となった。陸軍首脳は勅命によらなければ行動できないという伝統的解釈を捻じ曲げ、勅命によって阻止されない限りどのような行動も許されるという恣意的解釈を持つに至ったのである。

顧みれば明治の初期にその実権を担ったのは武士階級の者達で、彼等は政治家と軍人を兼ねた存在であった。昭和の軍人達は戦争やクーデターを引起しても、それからどうするという明確な未来像はなかった。それは彼等が政治家ではなかったからである。そして現実の政治家達は軍事に口出しできず、一旦戦争が始まるとブレーキを失った暴走車の如く大破局まで突進むしかなかったのである。


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