スターリンの冷徹な外交
革命後のソ連は、独特のイデオロギーのもと一党独裁の専制体制によって極端な秘密
主義を守ったので、その動向は謎とされた。しかし今となってみるとソ連の行動は単
純明快なものでした。
即ち資本主義国同士を争わせ、ソ連が彼等の戦争の犠牲となることを回避することに
あったのです。
32年(昭和7)のコミンテルンの反戦決議には、国際連盟は仏英帝国主義の道具である
ことを示し、米国は太平洋に於ける地位強化のために、日本・ソ連が弱まることを欲
し、日ソ戦争を挑発しようとしている。とあります。
日本が全満州を制圧しソ連と長大な国境線で接することで、ソ連の政策は極東の軍備
増強と、それが達成されるまでは対日宥和を採り、そして日本が南進して蒋介石の国
民党や米英と衝突するのを期待することでした。
蒋介石は、満州を失った張学良を剿共副司令官に任命し陝西省の前線に配置します。
ところが、張は共産軍に戦意なく、やがて相互不攻撃の了解が成立したなどの噂が流
れ、憂慮した蒋介石は36年(昭和11)12月西安に赴きます。
張は早朝、蒋の宿舎を襲い軟禁し、挙国統一政府をつくることを要求。スターリンは
毛沢東に電話をかけ、蒋を救出させよと命じます。そして周恩来が西安に乗り込んで
蒋の説得に当たり、37年3月国共合作による抗日民族統一戦線を結成。(西安事件)
以後張は蒋の命により監禁生活を送ることになります。
日本の陸軍は中国の戦略を理解できず中国を甘くみくびり、中国を一撃して対ソ戦に
備えようと、目先の軍事行動だけに没入していきます。
37年6月4日政党も軍も歓迎する公爵近衛文麿が首相就任した途端、北京郊外で盧溝
橋事件が勃発します。
以上 岡崎久彦著「重光・東郷とその時代」 保阪正康著「昭和陸軍の研究・上」より