挑発しやすく、挑発に乗りやすかった日本陸軍

37年(昭和12)6月4日陸相杉山元海相に米内光政を留任させ、元首相広田弘毅
外相とする近衛内閣が発足します。

スターリン主導で結成された抗日民族統一戦線の攻撃目標は、00年(明治33)北清事変
の末、北京議定書で駐兵を認められ、天津に駐屯していた第一旅団第一連隊でした。

37年7月7日午後十時過ぎ、盧溝橋付近で夜間演習中の第三大隊(一木清直少佐指揮)
に北京方面から数発の実弾が撃ち込まれ、続けて十数発が撃ち込まれます。

二・二六事件皇道派粛清で左遷された連隊長の牟田口廉也大佐は、その報告を受け
るや「敵に撃たれたら撃ち返せ」と旅団長河辺正三少将や参謀本部の命を待たずに独
断命令を出します。

9日午前二時日中両軍で停戦協定が成立しても、牟田口は「中国が協定を守る筈はな
い」と前進を命じます。10日朝宛平県城に進軍すると、午後四時頃日本軍に数発の小
銃弾が撃ち込まれます。

牟田口は「やっぱり敵は、協定を守るつもりはない」と第一・第三大隊に攻撃命令を
出します。そこへ河辺がやってきてものすごい形相で牟田口を睨みつけます。強気の
牟田口はぐっと睨み返します。なぜか河辺は一言も喋らなかったという。

以上 半藤一利著「昭和史」より

牟田口の強硬姿勢により北支事変から支那事変へ、やがて日中戦争へと拡大します。
その後累進した牟田口中将は、44年3月から戦略上無価値で、東条への単なるゴマ擦
りに終るインパール作戦を強行。約13万人の将兵が投入されたが、損耗率は90%。

勲章を欲しがる牟田口は、当然A級戦犯として処刑されるべきと思うが、結果的に敵
のために働いた愚将は赦されるようだ。66年死亡(77歳)


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