度重なる中国の挑発

37年(昭和12)7月7日の盧溝橋事件の直接原因について林茂はその著書「日本の歴史
・25巻」で次のように言っております。

参謀本部は対ソ戦準備のため、36年5月中国政府の諒解なしに北支駐屯軍を三千名か
ら五千名に増員。中国は華北侵略の一環と見做し地主に兵舎用地売却を禁じて対抗。
日本軍は勝手に買収予定地を訓練に使用、小競合いが頻発していた。-----と

37年7月25日夜、豊台南方の廊坊で軍用電線を修理中の日本軍が中国軍に襲撃されま
す。26日夜には、トラック27台に分乗して北京城内に入ろうとした日本軍に、広安門
城壁上の中国兵がトラックの通過半ばで城門を閉じ、城外の部隊を銃撃します。

28日夜、冀東政権下で安全とされる通州で、日本の守備隊の留守を狙った、同政権の
保安隊三千名が反乱を起し、特務機関長細木繁中佐以下日本人居留民二六○名が惨殺されます。その直接のきっかけは関東軍飛行機の保安隊兵舎への誤爆がありました。

中国と戦えば持久戦になる、と不拡大を主張する参謀本部第一部長石原莞爾や参謀次
長多田駿中将に対し、出兵して一撃を加え華北支配を確立せよ、と拡大を主張する石
原の部下で第三課長の武藤章大佐や陸軍省軍事課長田中新一大佐らが対立します。

この対立は、参謀本部が現地に自制を命令すると、直ぐに部下から現地に電話で「構
わないからやれ」と伝えられる程、発展してしまいます。

近衛首相のブレーン尾崎秀美は、中国問題専門家としての名声を利用して、朝日新聞
中央公論で事変拡大のキャンペーンを張ります。尾崎はのちにソ連のスパイだった
ことが発覚して刑死。(ゾルゲ事件)

満州事変では参謀本部の命令を無視して戦線を拡大した石原が、その部下の武藤によ
って北支事変不拡大の命令を無視されるとは----それだけでなく武藤は石原排除を画
策します。


レース結果共鳴チェック