第二次上海事変へ

盧溝橋事件から一か月後の37年(昭和12)8月9日上海で海軍特別陸戦隊中隊長大山勇
夫中尉は、斉藤要蔵一等水兵の運転する自動車で虹橋飛行場付近を視察中、保安隊の
一斉射撃を受けて即死するという事件が発生。日中両軍は即戦闘状態に入ります。

15日政府は「支那軍の暴戻を膺懲し、断乎たる措置をとる」と発表します。海相米内
光政は大勢に順応し出兵に消極的であった陸軍に出兵を要求、同時に海軍航空隊は南
京・蘇州・杭州などへの渡洋爆撃を強行。米内は中国に対しては強硬だったのです。

ソ連は同年8月21日中ソ不可侵条約を締結し中国に武器援助を開始します。37年から
41年まで航空機一千機、砲一千門、機関銃一万挺を含む軍事援助を与えたという。目
先しか見ない軍首脳は、スターリンの真意を知らずこの条約でソ連の対日参戦は無い
ものと胸をなで下ろすのである。

上海戦線での中国軍の抵抗は、日本軍の予想を遥かに超える頑強さで、クリーク(運
河)を利用し、トーチカを築いた防禦線は三ヵ月にわたり日本軍の猛攻に耐えました。

日本軍は9月に三個師団を増援に送り、10月には三個師団からなる第十軍を編成、杭
州湾上陸を敢行して、ようやくこの戦線を突破します。

先の見通しもなく、時の情勢に流されて、貧乏陸軍は兵力を少しずつ投入していくと
いう、いわゆる兵力の逐次投入は戦略の最も戒めるところなのだが----

佐野眞一著「阿片王」には、上海北方では中国側に知己の多い里見甫に軍の白羽が立
ち、彼が中国の将軍と秘かに会い折衝の結果、大金を代償に支払う条件で撤退する合
意を取付けます。

日本軍首脳は、代償金の前渡しを偽札で行おうとするのを、里見は烈火の如く怒り「
そんなことで武士の一存が立つか!」この一言で信義は守られ総退却したとあります。


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