東条英機の実像

中国との戦闘は上海だけでなく華北でも思惑通りに行きません。北支駐屯軍は内地師
団の到着を待って保定に向かい南下する作戦を立てていたが、それを察知した湯恩伯
が率いる中国中央軍はチャハル省に進入します。

日本軍は北進して背後を固めて南進する作戦に変更。37年(昭和12)8月21日から第十
一混成旅団と第五師団(師団長板垣征四郎)とで開始されたこの作戦はチャハルに入る
まで二週間の激戦を繰り返します。

東条英機関東軍参謀長は、中国中央軍のチャハル移動を好機と捉え、前年の綏遠事件
で果せなかった内蒙古支配に乗り出し関東軍から三個旅団を選び東条兵団を創ります
参謀本部の制止を無視した東条は8月27日張家口、9月13日大同、10月14日綏遠、
17日包頭と内蒙古一帯を占領します。

第五師団長板垣も、チャハルの中国軍を撃退した後は保定作戦に復帰する軍司令部の
意向を無視し、東条兵団に呼応して奥地に進軍します。東条も板垣も、かって進展を
見せなかった華北分離工作を、軍事力で実現しようとしたのである。

「阿片王」で佐野眞一は次のように言っております。「アヘン戦争に敗れた清朝が増
大する英国からのアヘン流入(銀流出)に対抗するため、チャハル産、綏遠産のアヘン
国内需要を賄っていた。東条はそこに目をつけた。」

里見甫のアヘン資金が満州映画協会理事長甘粕正彦を通じて東条に流れます。甘粕の
陸士時代の教官は東条でした。更に41年(昭和16)10月首相となった東条は、里見と昵
懇の京都西陣帯職人若松清一(華謡)を私設秘書として迎え頻繁に大陸出張を命じます。

33年(昭和8)参謀次長真崎甚三郎が天皇の意思を無視して熱河侵攻を強行したのは、
熱河は満州の一部と侵攻を正当化する関東軍に、アヘン獲得の狙いがあったのです。


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