南京虐殺事件は実在した!

中国の挑発で日本軍は、スターリンの思惑通り戦線をドンドン拡大します。日本政府
内の宣戦布告すべきの声を軍部が反対し、37年(昭和12)9月2日北支事変の呼称を支
那事変と改称。宣戦すると米国の中立法発動で戦時物資の輸入が止まるためでした。

中国との戦争維持に米国の軍需物資に頼る日本が、後年米国と戦争して勝てる筈がな
いことは、この一事からも明らかなのである。

上海から南京までの約百里の間、中国の防禦線はなく日本軍は日に六、七里のスピー
ドで進撃を続けます。この間糧秣の補給はなく現地物資のみに頼り追撃を敢行。徴発
・敗残兵狩りと称して中国民衆に対する掠奪・虐殺・強姦・暴行が繰広げられます。

京城の攻撃は同年12月10日から開始され13日には日本軍の手中に落ち、国民政府は
漢口に敗走。食糧難から日本兵は捕虜を容赦なく虐殺。(南京虐殺事件)日本人は戦後
東京裁判で追及されるまで、この事件を知らされません。

半藤一利は39年(昭和14)2月陸軍省作成の「秘密文書第四○四号」中国から帰国した
軍人の聞き書きには「戦争に参加した軍人を調べたら皆殺人・強盗・強姦の犯罪ばか
りだろう」とあり「私は日本人の一人として心からお詫びしたい」と記しています。

85年(昭和60)5月西独大統領ヴァィツゼッカーは演説しました。「我々ドイツ人全員
が過去に対する責任を負わされている----過去を変えたり起こらなかったことにする
訳にはいかない----過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目となる」

たとえ何があっても過去は水に流すことをよしとする国民性のせいだろうか、日本で
は戦争責任者の追及も、戦後責任のとり方も曖昧で、これらは好まれない話題のよう
である。----角田房子


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