トラウトマン仲介

37年(昭和12)7月7日の盧溝橋事件後、日本軍は総攻撃を開始して7月末までに北京
天津など華北一帯を占領。近衛首相が陸相杉山元に命じた不拡大は効を奏しません。

近衛は蒋介石との談判策を講じ、宮崎龍介(滔天の息子)を蒋の元に派遣、が神戸で乗
船の寸前憲兵に逮捕され計画が頓挫します。杉山の妨害でした。定見のない杉山は陸
軍次官梅津美治郎のロボットなのです。

ユン・チアンとジョン・ハリデイ二人の調査書「マオ」には、蒋介石の側近で南京・
上海防衛隊司令官 張治中(ソ連のスパイ)が、蒋の許可なしに日本の海軍中尉大山勇
夫を銃撃し(同年8月9日)第二次上海事件のキッカケとなる--とあります。

杉山陸相は不拡大を主張する参謀本部第一部長石原莞爾を、同年9月27日付で関東軍
参謀副長に左遷してしまいます。強硬派である梅津や武藤章の画策の結果でした。

同年9月中国は事件を国際連盟に提訴し連盟はこれを九ヵ国条約会議に移します。広
田外相は列強の駐日大使に個別に会談、条約会議不参加を説明し第三国の斡旋を受諾
する旨伝えます。陸軍の意向が優先されドイツの駐華大使トラウトマンの斡旋に決定。

同年11月2日日本政府の和平案は、北支の行政権を南京に委ね、内蒙古自治政府
立、上海の非武装地帯拡大等であった。12月7日ドイツの駐日大使ディルクセンから
中国側に日本の条件で交渉の用意がある旨伝わり外・陸・海三相会議は再確認します。

ところが翌日早朝杉山陸相が広田外相を訪ね「独国の仲介を断りたい、近衛首相も同
意した」と言い出します。陸軍次官梅津の突き上げに一度した約束を翻したのです。

工藤美代子著「われ巣鴨に出頭せず」には近衛が梅津と子分格の池田純久がソ連のス
パイであることを小畑敏四郎中将から知らされたのは43年(昭和18)。---とあります。

東京裁判に遅れて来日したソ連検事ゴルンスキーは阿部信行、真崎甚三郎を外し重光
葵、梅津美治郎の追加を要求。希望が適わぬ場合は裁判に参加しないと脅したという。
梅津はその裁判で終身禁固刑を受け、服役中に病死。67歳


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