国民政府を対手とせず

盧溝橋事件後マスコミ、世論は政府の強硬姿勢支持、軍部礼賛一色となった。この情
勢下に石橋湛山は「東洋経済新報」で「支那国民を抗日侮日に狂わしめた原因のなか
に我国が蒔いた種子も存することを反省すべき」というが少数意見でしかありません。

中国に攻撃を加え中国全土を制圧すべきという強硬論が、陸軍内部では遥かに受けが
良く軟弱と謗られないためには、そういう論に追随するほうが栄達に繋がるのである。

南京攻略に成功するとの予測から、これまでの和平条件では弱すぎると、広田外相自
身、日本兵の犠牲を考えるとこれでは和平は困難であると言い出します。実際に南京
攻略に成功すると日本政府は、37年(昭和12)12月21日過酷な新和平条件を出します。

中支を非武装地帯とすること、日満支三国は資源開発、関税、交易等で条約を結ぶこ
と、加えて賠償金も要求します。侵略して賠償要求とは和平の意思は皆無なのである。

政府は国民政府の12月末の回答期限を1月5日に、最終的に1月15日に延長します。
満州国境のソ連の軍事力強化を懸念する参謀次長多田駿は、連絡会議で交渉継続を主
張。米内海相は統帥部が内閣を信用しないなら内閣総辞職以外ないと恫喝する始末。

38年1月16日近衛内閣は政府声明を発表「帝国政府は爾後国民政府を対手とせず」と
多田らの統帥権独立の敗北は、世論、愛国主義的熱狂が日本を動かした稀な例であり
それが日本を破滅に導いたのである。

日本との和平を模索する国民政府の情報部長 陳立夫は仲介者トラウトマンに言いま
す。我々と独国と日本が大同団結して、赤(共産主義)と白(植民地主義)を倒すのが歴
史的な役目なのです。---と 保阪正康著「昭和陸軍の研究・上」
しかしヒトラーは38年3月チェコスロヴァキアのズデーテン併合を強要します。

加えて太平洋戦争に敗れた日本に蒋介石は「恩を以て怨みに報ゆる」政策を採ります。
哲学も世界観も何ひとつない日本の指導者は、蒋や陳の足元にも及ばないのである。


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