スターリンの遠大な戦略

党や政府だけでなく軍も粛清の対象となりました。革命内戦の英雄トハチェフスキー
陸軍元帥ら軍幹部が、ドイツのゲシュタポが偽造した文書を証拠に逮捕され37年6月
処刑されます。偽造と知りながらスターリンは軍粛清の材料として利用したのである。

軍では5人の元帥のうち3人、16人の司令官のうち15人、67人の軍団長のうち60人、海軍は8人の大将全員が処刑。加えて4万人の将校が逮捕され、大佐以上の幹部の65%が粛清されました。

スターリンの資本主義国家同志を戦わせ弱ったところを叩くという戦略は、37年7月中国共産軍(毛沢東)による盧溝橋事件から開始されます。日本軍と米英が援助する国府軍(蒋介石)とを戦わせ、最終的には日米戦争へと導き、弱った国府軍を潰すという遠大な戦略であり、それが正にその通りに歴史は動くのである。

39年8月23日独ソ不可侵条約を結んだヒトラーは9月1日ポーランドを侵攻、9月3日、英仏はドイツに宣戦します。ヒトラーの再三の督促を受け流して英仏の対独宣戦を確認したスターリンは、独ソ条約の密約に遅れながらも9月17日ポーランドに進駐。更にバルト三国をも占領し、11月フィンランドの領土交換要求拒否を理由に進攻。フィンランドの提訴により、12月国際連盟ソ連を侵略国家として除名しました。

ポーランドを東西から同時に挟撃するという密約を破って、ドイツのみを世界の敵に仕向けたスターリンの戦略には只々驚愕するのだが、ならず者・侵略者に変りはない。

ソ連諜報機関によりドイツが侵攻してくることを掴んだスターリンは、ヒトラーと日独伊三国同盟を祝った外相松岡洋右がモスクワに立ち寄った41年4月13日、日ソ中立条約を提案。裏にいかなる陰謀があるか少しも考えず飛びついた松岡はその日の14時調印。この条約の存在が日米戦争の和平仲介をソ連に依頼するという大愚策を犯すことになる。

41年6月22日3時すぎドイツは電撃的にソ連領土に侵攻を開始。スターリンの粛清で指揮官の不足したソ連軍が不利な戦いを強いられた大きな要因となったと言われています。

53年3月5日スターリン死亡。スターリン批判の後、クレムリンの壁近くに埋められその復活を阻むように、遺体の上には土ではなくセメントがかけられました。しかしその後もソ連の体質は変わらない。現在民主化したといわれるロシアですら、プーチン批判を書いた記者らが謎の死を遂げその犯人は捕まらない。


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