将兵・邦人200万を無事復員させた岡村寧次大将

41年(昭和16)7月北支那方面軍司令官に就任した岡村寧次大将は、「滅共愛民」の理
念から同年11月3日の明治節に「焼くな・犯すな・殺すな」の三戒遵守を訓示し、毎
将兵に唱えさせます。放火・殺人・強盗が常態化して規律崩壊にあった同軍を43年
頃迄には回復。洛陽、桂林では文化財も民生も徹底して保護され、今でも日本軍の行
動を多とする人々もいるという。

岡村は44年11月中国大陸の部隊を統括する支那派遣軍総司令官に栄転。45年8月14日
蒋介石のラジオ演説「以徳報怨」は下部の国府軍にも守られ、日本軍将兵100万、
在支邦人100万が大きな事件もなく、米軍の提供した輸送船で僅か10ヶ月で無事
日本に復員・引揚げました。岡村は中国戦犯として裁かれ無罪となり49年1月復員。

蒋介石は元々中国共産党(毛沢東)を剿滅してから日本と戦う戦略でしたが、西安事件
・盧溝橋事件で順序が逆になって8年が経過してしまったのである。蒋介石は日米戦
争が始った時から日本の敗北を予見し、対日戦の後如何に中共軍に勝つかでした。

国民党政府は米国から供与された武器弾薬を、将来の国共内戦のために温存し、対日
戦には消極的となり、日本敗戦で何より大事なのは日本軍の占領地域とその武器弾薬
中共軍でなく国府軍に引き渡されることでした。

45年8月14日スターリンは「中国の中央政府としての国民政府に、軍需品その他を援
助する」と声明して中ソ議定書を調印したが、実際は満州での日本軍武装解除による
武器弾薬は中共軍の手にわたり、国府軍はまず満州を奪われます。

日本軍が中国の人々に惜しまれながら去った後、共産軍を迎えた地域の多くでは中産
階級以上は根こそぎ殺戮されました。

日本民族が中国の一部に残した悪くない印象は、憎しみを革命の原動力とする共産政
権によってすべて抹殺され、最近の十年間は中国各地に日本軍残虐行為の記念碑を建立するなど、憎しみのキャンペーンがエスカレートしています。


レース結果共鳴チェック