続 朝鮮戦争

50年11月7日中国軍が介入したこの時期、国連軍が勢力下に置いた後方地区では頻繁にゲリラが蜂起します。この時の武器は十万の兵が突如消えた際、韓国内に潜伏していた北朝鮮兵が隠した小火器・戦車・重砲を地下から掘り起こして使用したものである。

一方、騎虎の勢いに乗じた中国軍は再編した北朝鮮軍と一緒になり51年1月4日ソウルを取返します。米軍はこの敗戦を回復するため厖大な資材を注ぎ込んで反撃に転じ再びソウルを手に入れます。これ以後戦線は38度線付近で膠着、泥沼化します。同年2月1日国連総会は中国を侵略者とする決議を採択しました。

51年4月11日マ元帥トルーマンに突如解任されました。マ元帥の考えは戦争を朝鮮から中国に切換える、つまり国民党(蒋介石)の軍隊を台湾から中国本土へ侵入させることにあり、戦争を朝鮮だけに限ろうとするトルーマンの政策を無視したためでした。

51年6月ソ連のマリク休戦提案により板門店で2年間にわたる休戦会議が行われ、53年7月に休戦が成立するまで戦闘が続けられたが、講和(戦争当事者の握手)は現在に至るも成立していない。従って38度線は国境ではなく軍事境界線なのである。

中国は義勇軍(志願軍)と名乗りながら、当時の総兵力500万の内最大時130万の将兵を朝鮮に派遣し、休戦までの3年間に36万の死傷者を出しました。中国軍司令官林彪が中部戦線で負傷したのは、正に中国正規軍の出兵だったことを物語っている。国連は戦争開始一年目の国連軍の死傷は29万2千、中国参戦以来一年間の国連軍死傷23万5千と発表している。

世界中の眼が朝鮮半島に釘付になったことを奇禍として、50年10月中国はチベットを侵略します。51年中国―チベット協定を成立させたが59年3月チベットの貴族、寺院等が反乱し中国軍がこれを鎮定。4月ダライ=ラマはインドに亡命、中印紛争の原因となる。

朝鮮戦争前ドッジプランによるデフレ政策に苦しんでいた日本経済界は、米軍からの特需(武器・車両の修理や弾薬の製造)によってその窮地から救い出されました。この戦争を契機として、国際的軍備拡張は大きく進展し特需と相俟って日本の輸出貿易を著しく増大させることになったのである。


レース結果共鳴チェック