4国分割占領下のドイツ

敗戦後のドイツは、後の東ドイツにあたる地域はソ連、西部ドイツは米英仏が占領。更に旧ドイツ帝国の首都ベルリンは総て東部ドイツに入っていたが、これまた4国に分割占領され、ソ連の影響下に西ベルリンだけがポッカリ資本主義の浮島となる。

48年6月米英仏が西部ドイツで通貨改革を行い、これを西ベルリンにも適用するとスターリンは東部ドイツをも影響下に置こうとしていると判断、東西ドイツの境界線に戦車を派遣し陸上交通を遮断、東部ドイツから西ベルリンへの電力・ガス供給も停止。西ベルリン市民200万人が人質に取られた状況になりました。(ベルリン封鎖)

米軍はダグラスC54を1300機集め、1日平均4千屯の生活物資を1年にわたり空輸します。この事件は東西の緊張を極度に高め、武力衝突の危機が高まったが49年5月ソ連が封鎖を解除して終結。同年9月西部ドイツにドイツ連邦共和国が建国され、ソ連支配下の東部ドイツ地方にドイツ民主共和国が成立します。

スターリンの寝室は暗殺を恐れて内側から鍵を掛けると開かない構造で、53年3月1日寝室で発作に襲われたが発見された時には手遅れで、3月5日死亡。人間不信が招いた自業自得である。彼の死後マレンコフが首相、第一書記がフルシチョフ赤軍代表がブルガーニン、3人が最高指導者となるトロイカ体制が敷かれました。

54年1〜2月のベルリン4国(米・英・仏・ソ)外相会議、55年7月4巨頭会談でドイツ問題等協議された。結論は出なかったが国際紛争を話合いで解決する気運が高まりました。そして56年2月ソ連共産党大会でフルシチョフスターリンの個人崇拝、大量粛清、大国主義を批判します。

東ドイツから西ベルリンを経て西ドイツへの亡命者が続出し、その数150万に達します。この若年労働力流出に苦慮した東ドイツ政府は、61年8月東西ベルリンの境界線を全長156Kmに及ぶ「壁」で遮断。ベルリンの壁建設の責任者はホーネッカーである。89年11月東欧革命の中市民の手によって破壊され、90年10月東西ドイツは統一されます。

世界には未だにスターリンの息子達がいることを忘れてはならない。中国でも北朝鮮でも、独裁政権が非道を行っている。スターリンの亡霊は今も世界を彷徨っている。


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