朝鮮戦争

マ元帥の考えでは、ソ連は戦後の創痍が癒えず到底戦う力が無いと信じていたし、中国もまた革命後間もなく外敵に立ちむかう余裕は無いと計算し、38度線に火を点けました。しかし当初の誤算は北朝鮮軍の力を過小評価していたことである。

北朝鮮は開戦して3日後の50年6月28日にはソウルを占領、7月3日漢江を渡河し4日に水原を落し、中部では春川、東部では三陟と怒涛の進撃を示し、5日烏山で初めて衝突した北朝鮮と米軍の戦闘は僅か一日で米軍の惨憺たる敗走となりました。錦江南岸の防衛陣地も7月16日北朝鮮軍に一斉に渡河され米軍はまたも大田へ敗走します。

一方、西海岸沿いの北朝鮮軍は7月18日大田を発って全州、光州、順天、晋州と南下を続けます。その強さは米軍のバズーカ砲は北朝鮮軍のT43型戦車の装甲を貫けず、砲撃力も米韓軍の主力は105mm砲だったが、北朝鮮軍の主力は155mm砲であった。

9月15日千機に上る飛行機の掩護の下、艦船300隻兵力5万の国連軍が大量の日本輸送員を使役して仁川上陸を敢行。洛東江から北朝鮮軍は大退却を開始し米韓軍が南方からこれを追い、仁川から南下した第十軍団が北朝鮮軍10万を挟撃する形勢となったが、北朝鮮軍は殆ど一夜にして米韓軍の眼前から煙のように消え去ったのである。

北朝鮮兵士は小銃の全身をグリースで塗りそれぞれの工夫で隠され埋められ、民家に飛込み軍服を脱ぎ白衣に着替え、山野を北へ北へと向って走ったのである。無事に北朝鮮に帰れたのは韓国住民の支持と同情があったからであり、同胞を殺しにきた米軍への憎悪からであったろう。

国連軍は10月1日38度線を突破、元山、平壌を落して朝満国境へ向けて快進撃を続けます。これを見てトルーマンマ元帥に警告「余り北上し過ぎると中国を刺激する。アジアにおいて6億の人間を敵に回したくない」この懸念は現実のものとなりました。

国連軍20万が北朝鮮軍を鴨緑江まで追いつめると、対岸から中国軍20万が突撃して正面衝突が開始されました。この混乱から総司令官ウォーカー中将を部下の戦車が轢殺すという椿事が起ったほどで、米陸軍史上最大の敗北となりました。

この時期トルーマンは「朝鮮における原爆使用を辞せず」という声明を出し、慌てた英国外相がワシントンに飛びこれを押し止めます。中国首相(国務院総理)周恩来は「正式な参戦はしない」との声明を出しました。


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