ソ連の原爆保有

47年3月のトルーマン声明、6月のマーシャルプランで米国の政策が表面化し、49年4月の北太平洋条約(NATO=反ソ軍事同盟)の調印で米国の対ソ包囲体制が完了。米国が原爆を独占した軍事技術上の優位から、ソ連を在外軍事基地の網で包囲するいわゆる「封じ込め」が出来上がったのである。

しかし49年9月トルーマンソ連の原爆保有を確認したと発表。同年10月1日毛沢東中華人民共和国の成立を宣言。同年11月の革命記念日にマレンコフは「米国が原爆奇襲攻撃を行えば、ソ連も原子兵器で報復できる」と声明。封じ込め作戦は完全に破綻したのである。米国の次の手段は朝鮮を足掛かりにしソ連と中国を分断させる以外は無いと考えます。

49年10月ソ連中共の国連加盟を主張して容れられず国連ボイコットを開始。50年1月には安全保障理事会をも欠席します。米国が朝鮮作戦を遂行するに絶好の機会となりました。それは安全保障理事会に拒否権を行使する国が無くなったからである。

50年1月コミンフォルム野坂参三の議会主義平和路線を批判、野坂は占領当局との対決路線を指示。同年5月30日野外集会中、占領軍との衝突事件が起りGHQは共産党赤旗の幹部41名に追放命令を発出。ついで第三次吉田内閣は政府機関・報道機関・教育界・産業界等で共産主義者追放を実施しました。(レッドパージ)朝鮮戦争のシフトか?

李承晩は全朝鮮が自分の領土と心得ていたし、金日成も李政権を傀儡政権として韓国は米軍の侵略地帯と思っていました。38度線という境界線に沿って千回もの小戦闘が起っていたのはこのことを証明している。

50年5月30日第二次選挙が行われたが、李承晩は反対派の66名の立候補者を辞退させ、その選挙員220名を国家保安法によって検挙。それでも議員数210名のうち李承晩派の当選者は48名に過ぎず李独裁政権の危機は決定的な運命に直面する。同年6月25日38度線に戦争が起りました。

韓国側の記録「朝鮮の歴史」朴慶植姜在彦著には「彼等は戦争の挑発によって延命を図ったのである」とあります。


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