スターリンの大粛清

22年レーニン脳卒中で倒れた時、スターリントロッキーに対抗するため、ペトログラード共産党議長グレゴリー・ジノヴィエフと、モスクワ共産党議長レフ・カーメネフ、二人の古参党員と組みます。

23年1月4日レーニンは遺言します。「スターリンは余りに粗野だ----彼を党書記長
から除きあらゆる点で彼とは違うタイプの人間----もっと忍耐強くもっと忠実で礼儀
正しく、同志に思いやりがあり、むら気の少ない人間を任命するよう提案する」

24年1月レーニンが死亡すると、5月の共産党大会で遺書が公表される予定となった
が、カーメネフらの画策で党員には公にされず、中央委員会だけで公開されました。
影響力の薄れたレーニンの言葉と、金や地位の面倒を見るスターリンと幹部達はどち
らを選ぶであろうか。勝負は遺書の開封前に決まっていたのである。

スターリンは御用記者を活用してトロッキーを攻撃し、何千人という同派の面々を中
央から消し、トロッキーは軍事人民委員(国防大臣)の職を辞すことになります。次に
手を組んだジノヴィエフカーメネフが邪魔になり彼等から地位も特権も剥奪します。
トロッキーは28年1月逮捕。29年ソ連を追放され、後にメキシコで暗殺されます。

スターリンは党と政府の中で権力を維持し、恐怖を抱かせるために粛清を断行します。
34年12月スターリンの側近でレニングラード共産党書記セルゲイ・キーロフが執務室
でレオニード・ニコラ―エフに撃たれて死亡。スターリンは自分にとって代わる可能性の高いキーロフを消し、これをトロッキー派の陰謀としてでっち上げたのです。こうしてキーロフのいたレニングラード共産党員5千人余が逮捕されました。

これを皮切りに際限のない粛清が繰広げられます。恐怖を感じさせる最高の方法は無
実の人間に罪を着せることと考えたスターリンはNKVD(秘密警察)を駆使し、工場、学校、アパート、商店あらゆる場所に密告者を置きます。学校では親が少しでも政府批判したら密告するよう教育され、実の子に密告された親も数多くいたという。

スターリンが無実の人々2千万人をラーゲリ(強制収容所)に送り込んだもう一つの理由は、タダで使える労働力が欲しかったからである。道路や鉄道などの公共工事、そこに必要なセメントなどの資材、トラクターや家具、下着まで生産させます。粗末な食事でラーゲリの死亡者は1,200万人を超えるとみられています。


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