戦間期における卓越した米国外交

22年(大正11)4月独ソ間にラパロ条約が締結されます。このドイツによるソヴィエト
政権の承認は、欧米諸国に大きな衝撃を与えました。(ソ連の成立は同年12月末)

独ソ接近を警戒する米国は、24年ドーズ案を発表します。これはドイツの支払い可能
な5年間の賠償計画と、ドイツへの2億ドルの融資でした。またフランスは占領した
ルールから撤兵します。25年10月のロカルノ条約締結で、26年ドイツは常任理事国
して国際連盟加入が認められます。尚、ソ連は34年(昭和9)の加盟となります。

ドーズ案によってドイツから賠償金を得た英仏は、大戦中に米国から借りた戦債を円
滑に返済できるようになりました。ここに米国を中心とするお金の循環「ヴェルサイ
ユ賠償環」が完成するのです。

27年(昭和2)補助艦軍縮ジュネーブ会議が開かれますが、仏・伊は不参加で不調に
終わり、国際間に嫌なムードが漂います。それを受けて28年8月27日15カ国による不
戦条約が成立、のちソ連をはじめ63カ国が参加します。しかし自衛戦争を認め、条約
違反に対する制裁規定を欠くなど実効に乏しいものでした。

この不戦条約は第二次大戦後、日本の戦争責任を問われた東京裁判ナチスを裁いた
ニュルンべルク裁判の法的根拠の一つとなります。

また対華二十一カ条要求や日露協約の秘密協定等、暴走しつつある日本に対し米国は
着々と対策するのです。満州軍閥張作霖に接近して満鉄平行線の建設を進めたり、
蒋介石による第二次北伐成功後、列国に先んじて蒋介石政権を承認するなど、日本の
権益と衝突することになっていくのである。

米国の平和を希求する政略・戦略に対し、ブレーキの利かない陸軍に日本政府は翻弄
されるだけで、打つ手が全く見いだせないのである。


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