陸軍機密費問題と怪事件

虎の門事件で山本内閣は総辞職し、陸相だった田中義一は後任の陸相をめぐって上原
勇作と決定的な対立となります。田中は三長官会議を開き宇垣一成の推薦を公式に決
め上原に発言の機会を与えません。上原は半年前参謀総長を辞めていたからです。

宇垣は、清浦奎吾・加藤高明若槻礼次郎浜口雄幸各内閣の陸相を歴任することに
なります。

25年(大正14)4月10日 高橋是清は政友会総裁を辞任し、田中義一は同じ長州の三浦
梧楼や久原房之助の支援を得て、三百万円(現在の十億円)の政治資金を用意して総裁
に就任しました。

26年3月4日陸軍二等主計三瓶俊治は大正9年当時の陸相田中と次官山梨半造を告発しました。
当時、官房主計金庫には田中・山梨らの個人名義の預金証書があり、総額は八百万円
を下らず、やがて無記名公債に買い代えられ全く個人所有のものと扱われた。という。

憲政会の中野正剛は、議会でこの問題をとりあげ「シベリア出兵当時の陸軍機密費二                                                                               千四百万円の一部を横領したものであろう。」と厳しく追及します。

宇垣陸相は閣僚の前で「数十万軍人の先頭に立っている陸相として、憲政会が陸軍に
どんな考え方をもっているのか承知しておきたい」と開き直ります。憲政会総裁でも
ある若槻首相は恐縮し陳謝します。中野の攻撃も腰砕けとなったのです。

告発を受けた東京地方検事局では石田基 次席検事が主任検事となり、三瓶を調べる
のだが、同年10月30日朝、石田検事は大森蒲田間の小川のなかで変死体として発見さ
れます。吉益俊次検事正は過失死と断定、石田の死によって機密費事件は不起訴に終
ってしまいました。

今井清一著「日本の歴史」第23巻より

日本政府が全く関知しないところで、陸軍は機密費による行動の自由を背景に中国大
陸で暴走し、中国や列強の世論を敵に回すことになるのである。



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