日中関係の転機となった「済南事件」

27年(昭和2)4月20日 政友会総裁の椅子を金で買った田中義一は、枢密院の伯爵伊東
巳代治をつっついて若槻内閣を追い落とし、待望の首相の座を射止めました。
田中首相は外相を兼任し、森恪を外務政務次官に据え実質的な外相とします。陸相
は何故か宇垣ではなく白川義則が、蔵相には前政友会総裁の高橋是清が就任します。

高橋は就任当日、華族の銀行で天皇が大株主の十五銀行の救済策を講じ、22日には全
銀行を二日間休業させ、緊急勅令により三週間の支払猶予令を布き、25日には各銀行
の窓口に札束を積んで金融恐慌を乗り切りました。42日間のショートリリーフで退任

再び北伐を開始した蒋介石は、同年5月下旬徐州を占領し、北京の張作霖の運命は旦
夕にせまります。森恪の強硬論に田中内閣は、在留民保護を名目に5月28日旅順から
兵二千を青島に出動させます。その後南京・武漢両政府の合体話がすすみ蒋は下野す
ることになり、北伐も停止されたので日本軍も8月には撤兵にふみきりました。

9月 宋美齢との婚約報告に彼女の母が住む神戸を訪れた蒋は、箱根で田中・森と会
談。「日本が軍閥援助をやめ我々の革命達成を助ければ満蒙問題は解決する」---と
この時既に、蒋は汪兆銘から即帰国して総司令に復帰せよとの電報を受け取っていた
のです。蒋はその後、馮玉祥らとの連合を完成し北伐を再開し、28年4月徐州を占領

野党の出兵反対は逆に政友会を強硬方針に駆立て、定見を欠く田中は4月19日三千近
い兵を動員して済南に送り込みます。蒋は大部分の部隊を済南から撤収し、北伐に向
かい騒動は終わったのだが、血迷った田中は5月8日第三次出兵を決定、第三師団に
動員令をくだします。

5月9・10日日本軍は済南の総攻撃を敢行、容赦のない砲撃が中国市民に加えられ、
3,600の死者、1,400の負傷者をだし、済南は殆ど壊滅してしまいました。

中国の排外運動は英国が主たる目標だったのが、一転して日本が最大の敵となり、そ
れが日本の敗戦まで続くのは、この時の済南事件以来なのである。

大内力著「日本の歴史」第24巻 岡崎久彦著 「幣原喜重郎とその時代」より引用

在留邦人保護よりも中国内戦干渉の是非を論ずるべきで、目先のみに捕われ本質を見
ない習癖、そして高い月謝を払ったシベリア出兵から何も学ばなかった愚かさを痛感
します。


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