田中義一の命取りとなった満州某重大事件

26年(大正15)4月段祺瑞を北京から追落とした張作霖は、大元帥を称し次第に日本の                                                                              傀儡を務めることに潔しとしなくなり日本に抵抗するようになります。特に満鉄の平
行線の敷設計画は、関東軍を大いに刺激し、終に張を見限ることになりました。

蒋介石の北伐は北京に迫り、内戦が満州に波及することをおそれた田中内閣は、28年
(昭和3)5月16日芳沢謙吉公使を通じ、張に奉天引揚げを説得させます。このように
田中首相と現地軍(関東軍)との間に思惑違いが生じていたのです。

6月4日午前5時すぎ、張の乗った特別列車は京奉線が満鉄の下を横切る所で、関東                                                                               軍高級参謀河本大作大佐が東宮鉄男大尉に仕掛けさせた爆弾が、この列車を吹き飛ば
します。この事件で白川陸相は、中国人の偽犯人をでっち上げた工藤鉄三郎・安達隆                                                                               成の逃走資金三千円を秘かに提供していたことが、後年判明します。

元老西園寺公望から何度も督促された田中は、半年後の12月24日天皇に拝謁し「責任
者を軍法会議にかけて厳重に処分する」ことを奏上します。陸軍省・部も内閣の大臣
達も猛反対します。議会の野党も後に政権を獲った時にひどい目にあうという打算か
ら、列強が注視する重大事件であるにもかかわらずいい加減な追及に終始するのです。

29年5月6日田中は天皇に「実はこれは陸軍がやったのではありません。警備義務の
責任として、軽い行政処分としたい」と奏上します。奏上を半年もすっぽかした挙句
陸軍は一切関係ないと言うのですから、天皇はカンカンに怒ります。

6月28日白川陸相は、河本を退役処分、村岡長太郎関東軍司令官を予備役という処分
案を天皇に報告しました。天皇は田中を呼び寄せ「これで済むと思うのか、お前は辞
めるように」と告げたのです。7月2日総辞職、田中はその二ヵ月後狭心症で急死。

半藤一利著「昭和史」より

前出、八幡和郎は「西園寺は認めたほうが、文明国だと評価され相手も許すだろうと
言ったが、金正日が拉致を白状しても日本人は、褒めも許しもしないことを考えれば
よい。現実外交はそんなに甘くない」と言っております。


レース結果共鳴チェック