続 満州某重大事件

前代未聞の天皇による宰相罷免の裏で、粛軍を強調した元老西園寺公望内大臣牧野
伸顕・侍従長鈴木貫太郎に対する疑念や憤りが広がり、軍部は君側の奸と呼ぶように
なり、二・二六事件では暗殺の対象とされました。                                                                              

天皇はこの事件以来、私は内閣の上奏はたとえ自分が反対の意見を持っていても裁可
を与えることに決心した。と仰せられ「君臨すれども統治せず」を貫徹するのである。

大江志乃夫は著書「張作霖爆殺」で「天皇のこの反省は全くの的外れであった。叱責                                                                               する相手が違っていたという認識が、天皇にはなかったようである。天皇統帥権者                                                                               たる資格において、首相でも陸相でもなく参謀総長鈴木荘六にこそ事件の真相究明の                                                                               調査を命じなければならなかったのである。」

天皇がこの事件の責任を田中首相(長州)に問うただけで陸軍を免責したことは、何
をやっても政府の責任が問われるだけで、陸軍の責任が問われることはない、という
確信が陸軍をあげての次なる謀略に走らせた。」と言っております。

また米国務長官ケロッグ提唱の不戦条約批准を審議する議会・枢密院では、「人民の
名において」が日本の国体に背くという反対論で沸騰し、結局「帝国憲法の条章より
みて日本国に限り適用なきものと了解する」という政府宣言を付記することで批准と
なり、自衛戦争は肯定され日本陸軍に対するブレーキとはならなかったのである。

23年(大正12)3月参謀総長上原勇作(薩摩閥)は辞任に当り、武藤信義を参謀次長に据
え影響力を残します。その武藤・真崎甚三郎・荒木貞夫は、長州閥打倒を目指し若手
エリートの結集を狙った宇都宮太郎の腹心で、宇都宮の死後元帥府の上原の基に再結                                                                               集します。

この事件当時、参謀本部作戦部長荒木貞夫の職務や言動から、事件の黒幕は上原―荒木ラインであると思わざるを得ません。私の穿ち過ぎであろうか?


レース結果共鳴チェック