人間宣言と公職追放

46年元旦、天皇の神格を否定する詔書人間宣言が出されます。これはGHQの命令でもなく、天皇の自発的意志でもなく、占領軍の顧問ヘンダーソン大佐と禅研究の英人ブライスから生まれたといわれる。

二人は日本の民主化と平和のためには、日本の超国家主義天皇の神格化を否定する
教育勅語が必要なのではないかと思い、ブライス学習院で教えていたのでこれを宮中に伝えると、天皇が支持したことが判り二人の草案が吉田外相に届けられます。

幣原首相が天皇のご意向を伺うと、改めて天皇の神格化を批判され、幣原も天皇神格化を軍部が悪用してついに国を滅ぼしたという考えを申上げ、12月25日大正天皇崩御日、祭日であったが独り官邸に籠り案文に手を加えたのである。その翌日幣原は官邸で倒れます。急性肺炎でした。

マ元帥はこの詔勅に対し、「天皇は人民の民主主義化を指導した」という声明を発しその後天皇に対する内外の風当たりを緩和するのに大きな効果があったのである。

46年1月4日病床の幣原のもとに突然届いたのは、GHQが発表した公職追放令でした。A項・戦争犯罪者、B項・職業軍人はやむを得ないとしても、定義が曖昧で占領軍の自由裁量の余地が大きいG項に至るまで広汎な人々を含んでいました。

追放されるということは、発言できる地位を追われるだけでなく、同時に生計の道を失わせる脅迫の効果もあり、家族を飢餓から守る責任ある人が、自らの尊厳、矜持を守るために家族を犠牲にすることは困難でした。日本人の矜持が急速に失われたのは経済的窮乏のためなのである。

この追放の大きな動機の一つは、一月末に日本側が予定していた総選挙をそのまま実施させれば、戦前戦中の政治家が日本の民意の代表として選出されてしまう。それを防ごうと先制したのである。GHQは総選挙自体も3月半ば以降に延期するよう指示。

結果として大正デモクラシ―から軍国主義への時期を、責任ある地位にいて全て経験してきた世代が失われ、その後の軍国主義時代に中途半端な役職を務めた経験しかなく、海外経験も乏しい世代、個性を没却した軍隊教育を受けた世代が戦後長きにわたって日本の支配層となった弊害を生むことになる。


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