新憲法9条・戦争放棄

46年1月4日病床で公職追放令を知った幣原首相の憤怒と懊悩は激しかった。追放の対象となる堀切善次郎内相、前田多門文相、松村謙三農相、次田大三郎書記官長(官房長官)をGHQの指令を実行して、馘首することなど幣原の心情としてできる筈もなく総理を続ける気は全くありません。前の東久邇宮の心境と同じでした。

吉田外相は会談を避けていたマ元帥に、やっと10日夜に会って閣議に報告します。「あれはワシントンの指令だから何ともしかたがない。これ以上無理を言わぬから現内閣で執行してくれ----幣原さんが誠実な政治家と信じているから、これだけは承知してくれ」総理にこの旨を報告したが、非常な興奮で耳を貸そうとしない。

そこで松村と次田は病床の総理の説得に当ります。他に適任者のいないこの難局に、お前が投げ捨ててよいのかと詰問。二、三十分も沈黙していた幣原は「一身のことにかかわるべき場合でない。諸君の要請に応えて留任することにする」と言ったという。

21日幣原は病気から回復して執務に復帰するが、既に前の幣原とは違ってしまいます。
日本の歴史も伝統も、改革への熱意も、何を言っても虚しい。大国民としての矜持も男の意地も捨てねばならない。必要なのは敗戦という運命を受容する諦念と忍従だけ。

1月24日幣原はマ元帥を訪問。表向きの目的はマ元帥からペニシリンが贈られたお礼であるが、実際は今後作成する平和主義憲法は占領軍の強制ではなく、日本側の自由意思によって作成されたことにするという密約でした。実は、米国だけでなく連合国も発言権をもちたいという意向を受けて極東委員会が設置され、憲法改正のような重要問題は同委員会が決定することとなった背景があって、それを阻止すべくマ元帥は急いでいたのです。

2月3日マ元帥天皇制維持、戦争放棄、封建的制度廃止のマッカーサー三原則を基に憲法草案起草を命じ、13日既提出の松本烝治案を否定、米国案が提示され、21日幣原・マ元帥会談となり、元帥は極東委員会の動向を伝え、自分が天皇を守りきれるか心配だと憂慮を表明します。天皇を戦犯裁判から救うには、米国案を呑みそれを日本の発案というしかないと幣原は観念します。

これを占領軍による憲法の押付けと呼ぶか、占領の成功のためには天皇を守るほかないというマ元帥の戦略が天皇制を救ったと評価すべきか?


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