戦後初の総選挙

45年11月から12月のあいだ政党の復活または結成が行われます。特に鳩山一郎を総裁
とする自由党は綱領に憲法改正をうたい、町田忠治の日本進歩党は幣原内閣に3人の閣僚を送っていました。日本社会党共産党を除く戦前の無産政党を糾合して成立。

共産党も合法政党として認められ、天皇制打倒を叫びながら、28年三・一五事件の検
挙以来、獄中生活から解放された徳田球一をはじめとする3千名の同志によって再建。
31年に亡命していた野坂参三が延安からソ連経由で帰国、共産党に参加します。野坂は
コミンテルンとNKVDのスパイであったことが後年発覚します。

婦人参政権を含む選挙法改正は11月13日に閣議決定、12月15日には両院を通過。46年
3月6日憲法改正案を発表。4月10日の総選挙において自由党は141議席を得て第一党となり、第二党は進歩党の94第三党は社会党の93共産党5で、社会党の勝利を期待していたGHQ民生局の思惑外れとなります。

民生局は民主主義のルールを無視し、幣原が党首となった進歩党と社会党との二、三
位連合を策し幣原の首相留任を求めます。しかし党内が左傾化しつつあった社会党
幣原内閣打倒に向い幣原は総辞職。吉田が鳩山の首相就任のGHQ了承を得ようとし
た5月3日GHQは鳩山の公職追放を指令。4日鳩山は吉田に「後は貴様がやってくれ」と正式に申入れ、14日閣僚人事に鳩山は口出ししない条件で吉田は引受けます。

5月19日この政治的空白を利用した共産党指導による食糧メーデーが勃発。徳田球一
を先頭とするデモ隊は坂下門に達し天皇との会見を迫ったり、組閣本部に座込みして
吉田の組閣を阻止する戦術をとります。食糧メーデーを名とする明白な反政府革命運
動であったが、この成功を抑止したのは占領軍の力でした。

20日マ元帥は日本国民に警告を発します。「組織ある指導の下に行われつつある大衆
的暴力増大の傾向とフィジカルな脅迫手段とは、日本の将来の発展に重大な脅威を与
えるものであることを日本国民に警告する----日本社会のこの一小部分がこの程度の
抑制と自重を行うことが不可能であるならば、かかる嘆かわしい状態を統制し矯正する必要な手段をとらざるを得なくなるであろう」

また内閣・国会に超越させようとする軍部に同調した鳩山の「統帥権干犯」発言や文相として京都大学に難癖をつけた「滝川事件」を思い出して戴きたい。責任の大きい文民が軍部に阿諛追従した結果の公職追放に同情の余地は全くない。


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