サイパン陥落

サイパン島はドイツ領であったが第一次世界大戦で日本の統治下となり、日本人が入
植し南洋興発といった企業を起こし、2万5千人の日本人が住んでいました。

44年(昭和19)5月2日宮中で天皇臨席のもと陸海軍両統帥部会議が開かれ、参謀総長
東条は「サイパンは難攻不落の島です」と豪語。だが実際はセメント不足のためタコ
壺を掘った程度の陣地であり、据えられた大砲も砲弾も数が限られていました。

5月第31軍の中核である第43師団にサイパン防衛を命じられた時、賀陽宮恒憲王
に代えて軍馬補充部本部長の斉藤義次中将が師団長となるほど将兵補給は枯渇。この
主力部隊は5月19日サイパンに到着。がこれ以後の輸送は次々と米軍に撃沈されます。

6月11日〜14日米軍の艦載機によってサイパンの飛行場、陣地、軍事施設等がことご
とく破壊されます。第31軍司令部は救援部隊の来る予定もない段階で「陸海軍の救
援を待ち適宜交戦すべし」と命令。日本の連合艦隊20日にはマリアナ沖海戦で壊滅。

15日の未明米軍は艦砲射撃で上陸予定地点の海岸から丘陵にかけて徹底した攻撃を加え水陸両用戦車で上陸。上陸部隊は6か月の休暇が与えられ態勢を整えて戦場に来たのである。初登場のロケット砲を含む圧倒的兵力は6万3千。対する日本兵4万3千。

7月7日斉藤師団長は3千人の生存兵士と共に玉砕。僅かな兵士が山中に閉じ籠り、
敗戦も知らず45年12月までゲリラ戦を戦いました。サイパンの戦いで日本兵4万1千
人余が戦死、米軍の死傷者は1万5千人に達しました。

島の北端に追いつめられた市民は「生きて虜囚の恥ずかしめを受けるな」と手榴弾
自決したり、150mの断崖から身を投じます。無辜の民1万人が死んだ。


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