日本の航空機生産

近代戦の主役となった航空機の生産が超重点的に強化されたのはいうまでもない。中
島飛行機・三菱重工業を中心とする民間企業が航空機生産の殆どを占めていたので、
陸海軍は対立に対立を重ねながら、それぞれ企業との非合理な関係を深めていきます。

43年(昭和18)11月軍需生産の一元的計画・統制を目指し商工省と企画院を統合した軍
需省が設置され、その下に航空兵器総局が設けられても総動員局の行う資材割当は、
まず陸海軍に分けられたのち、航空兵器総局を通じて各企業に配分される有様でした。

結局、軍需省による軍需生産の計画・管理の一元化は行われず、いたずらに統制事務
を複雑にするだけで多くの場合一番大きな声を出した者が勝つという掴み合いでした。

陸海軍はそれぞれ多くの資材割当を獲り、それを庇護する会社に流して増産を図った
のであるが、企業側からみると生産能力以上の資材の配給がくる場合もあり、その時
は資材をヤミに流して、ほかの生産必要物資を求めたという。

航空機企業は統制経済のもとで極度の手厚い保護を受け、拡張につぐ拡張を続けたが
企業管理の実情は非効率でした。

43年夏、行政査察使として航空機生産の実情調査を行った藤原銀次郎は、陸海軍の無
駄な対立と競争をやめ、資材を能率的に利用するならば、年生産高を一挙に五倍以上
の5万3千機に増やせると指摘。

この航空機産業の欠陥はその後も是正されません。因みに44年度の米国航空機生産は
約10万機である。

戦争が終って現在に至るも、行政の非能率はいっこうに改善されることはないのである。


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