哀れ日本帝国の情報収集力

41年(昭和16)6月22日独ソ戦争勃発直後から、ルーズベルト米大統領はモスクワに特
使を送り、ソ連を仲間に引き込もうと行動を起こしました。42年11月14日米特使ハーレイ、大統領付幕僚長レイヒイはモスクワでスターリンに会ったが、彼はドイツが敗れ去ったあと対日戦で米国を援助するつもりだ、と語りました。

43年10月モスクワでテヘラン首脳会談の準備をかねた米英ソ三国外相会議が開かれ、
その最後の30日の夜スターリンは米国務長官ハルに対し「連合国がドイツを打ち負か
したら、ソ連は日本との戦争に参加する」と一切代償を求めず正式に表明。ハルは奇
妙なくらいスターリンに借りをつくった気持になったという。二週間前ソ連を対日参戦させたい米政府は、見返りに南樺太・千島列島も引渡すべきと決定していたからです。

43年11月29日テヘラン三国首脳会談でスターリンはこのことを公式に保証し、30日極
東に不凍港がほしいと要求、しかしこの会談の公式記録には千島のチの字もない。41
年8月の大西洋憲章には、この戦争によって連合国は新たな領土の獲得は行わないと
いう大原則を定めていたからである。参謀本部は懸命に情報収集、成果は挙りません。

日本では、和平仲介はソ連に頼む以外にないというのが東条内閣時代から木戸幸一
じめ政界上層部で一般的に考えられていました。木戸が重光葵外相を小磯内閣に留任
を示唆したのもそのためでした。44年9月6日重光はマリク駐日大使に特使をモスクワに派遣したいと申し入れますが、16日モロトフ外相に断られてしまいます。

44年10月9日チャーチルがモスクワを訪問したとき対日参戦が改めて約束され、スタ
ーリンは「ドイツ敗北の3ヶ月後には対日攻撃を行う」と明白に言切ります。ここに期日がはじめて明らかにされたのです。

日本のトップは既に敵にまわっているソ連を仲介の和平工作に全力を傾注します。当てにならないスターリンを当てにして和平を夢見ていたわけです。


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