東条の総辞職

東条は倒閣を策す重臣たちに「総理大臣としていずれも落第した者の集まりではない
か」と敵意を露わに表明し、憲兵特高を使っての監視を強化。東条の改造内閣の動
きは海軍部内に信望の厚い米内光政を国務相として入閣させられるかどうかでした。

反東条の空気は海軍や重臣だけでなく議会にも広がり、米内も度重なる入閣要請を拒
みます。重臣入閣に備えて辞職を求められていた岸信介国務大臣も連帯責任論を唱え
て単独辞職を拒絶。東条は44年(昭和19)7月18日改造を断念し総辞職を決意します。

同日16時宮中で後継内閣首班選定の重臣会議が開かれ、概ね寺内寿一南方軍総司令官・小磯国昭朝鮮総督・畑俊六支那派遣軍総司令官に落着き、上奏の結果小磯に決定。翌日小磯一人では不安という意見から小磯・米内連立内閣説が纏り、20日再び重臣会議を開いてそれが諒承されます。

18日の重臣会議の席上近衛文麿は「今日、軍・官・民に亙り左翼革命を企てんとする者あり、此の点は敗戦以上の危険にして自分は敗戦よりも左翼革命を恐るるもの----」と
警告を発するが、平沼騏一郎らの同感表明があった程度で重要視されません。

20日小磯組閣に当り天皇から「特に大東亜戦争の目的完遂に努むべし。尚ソヴィエト
ロシアを刺激せざるよう着意するを要す」との勅語がありました。小磯は戦局の好転
を図ろうと陸相兼任を希望したが東条も陸相留任を希望。結局杉山元の就任で妥協。

小磯が大本営の会議に加わり統帥を把握したいと申出ると梅津参謀総長は、そのような前例をつくるのは芳しくない、陸相は杉山に決まっているからとその要求を撥ねつけます。この経緯の結果、杉山・梅津コンビが以前は陸相と次官、今回は陸相参謀総長として復活したのである。梅津は定見の無い杉山なら御しやすいと歓迎したのであろう。

東条は予備役になったが、陸軍次官富永恭次中将・軍務局長佐藤賢了少将・軍務課長
赤松貞雄大佐(東条の元秘書官)・東京憲兵隊長四方諒二大佐などの東条系分子は依然として陸軍省内に勢力をもっていました。

サイパン失陥で日本の敗戦は決定的であったにもかかわらず、陸海軍の指導者はこれ
で終わりだ!終戦工作に入ろうと口に出す勇気をもたなかったのである。


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