異例! 梅津美治郎を参謀総長に再上奏した東条

東条英機という軍人が天皇に強烈な印象を与えたのは、38年(昭和13)5月のことでし
た。支那事変の拡大派ではなかった近衛首相は政策を変えるため、拡大派の急先鋒杉
陸相板垣征四郎とする更迭案を天皇に訴え天皇も同意。

天皇と近衛の意思を知った杉山と陸軍次官梅津美治郎は、板垣では対支作戦が中止と
なると恐れ、板垣を牽制する人物を次官に据えようと陸軍の強硬派関東軍参謀長東条
に白羽の矢を立て、まだ近衛が板垣を陸相とする上奏もしていないのに杉山は次官に
東条を据えたいと上奏。天皇憲政の常道を無視した陸軍の焦りに憤慨します。

同年6月3日陸軍次官を東条に譲った梅津は、第1軍司令官として中国戦線に出動。
39年5月スターリンが仕掛けたノモンハン事件に惨敗した関東軍に対し参謀本部は、
同年9月関東軍司令官植田謙吉を解任。後任に梅津が就任し事件後の再建に努めます。

41年12月8日の日米開戦時の参謀本部は、日ソ中立条約をあてにしつつも、ソ連が米
国との連携を強めて敵となったことを認め、関東軍には「対ソ静謐」を厳命します。
43年10月関東軍の第二方面軍と第二軍・機甲軍の各司令部から幕僚要員が抽出され南
方に転用。この後急速に大量の兵力転用が開始され45年3月まで7割近くが南方へ---

つまり参謀本部関東軍の南方転用を決定した時点で、南方作戦と本土決戦のため関
東軍をはやばやと見捨て、関東軍はそれならばと居留民と開拓団を見捨てたのである。

44年7月7日のサイパン陥落で東条内閣への風当たりが強まり東条は一時は総辞職を
考えたが思い直し、13日木戸内大臣に戦争完遂を表明し、この難局を改造内閣で乗切
りたいと告げます。天皇の意を体した木戸はその前に総長の兼任を解き、海軍や重臣
に評判の悪い嶋田海相の更迭を求めます。

東条は7月14日参謀総長を辞任。後任には参謀次長後宮淳が裁可されたが、天皇の不
満を察した東条は18日関東軍司令官梅津美治郎大将を推戴し直します。いったん裁可されたものを取消上奏するのは極めて異例なことでした。天皇はじめ東条は国家存亡の危
機に最悪の軍人を参謀総長に擁立したのである。


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