創政会結成

中曽根総裁再選目前の84年10月末、鈴木善幸福田赳夫公明党竹入義勝委員長、矢野絢也書記長、民社党佐々木良作委員長らが二階堂進副総裁(田中派)を担ぎ出そうとする動きが表面化した。しかし、田中角栄の強い反対と党内から野党が関与していることへの抵抗もあって、中曽根は10月31日の自民党両院議員総会で総裁に再選された。

田中の最大の忠臣二階堂が反乱を起したことは、田中支配にかげりが出てきたことを意味していた。85年2月7日同派の竹下登蔵相を盟主として、派中派といえる創政会が旗揚げしたことで、田中支配が終わろうとしていることがハッキリする。

田中支配のありようは、田中派からは総裁・首相を出さず、その力を他派の領袖に貸して総裁に就け全体を支配するものであった。支配が続く限り自派からは首相を出せないことに二階堂も竹下も、その同調者らも不満を募らせたのである。創政会結成に怒った田中は深酒の末2月27日自宅で脳梗塞で倒れ、2ヵ月後に退院したが強い言語障害などが残り、政治的影響力を失ったまま93年12月16日死を迎える。

中曽根は田中支配が終わり、自らの政治路線「戦後政治の総決算」を押し進めた。二度の石油危機は税収不足を補う赤字国債増発で財政は危機にあった。中曽根は「民間のやれないギリギリのことだけ国家がやる」という民間活力活用を政策の柱とした。この線に沿って、専売公社を日本たばこ産業会社(JT)、電電公社日本電信電話公社(NTT)にする法律が成立し、二つの民営化が85年4月1日から実施に移された。

国鉄再建監理委員会は、87年4月に国鉄を六つに分割民営化するとした最終答申を提出。政府はこれに基づいた法案を用意し曲折の末、86年10月28日関連八法を成立させた。これにより総評のなかで強大な組織力を誇った公共企業体等労組協議会(公労協)はなくなる。

84年1月5日中曽根は首相として戦後初めて靖国神社に年頭参拝した。翌85年8月15日これも戦後の首相として初めて公式に参拝。これに対して中国が猛然と反発。中国は特にA級戦犯として処刑された東条英機らが合祀されていることを重く見て「アジアの心を傷つける」と批判した。中曽根は以後、参拝を見送り後藤田正晴官房長官は86年8月14日公式参拝自体は廃止しないが、近隣諸国の国民感情に配慮するとの談話を発表した。


レース結果共鳴チェック