不沈空母

中曽根首相は83年1月11日訪韓して全斗煥大統領と会談、40億ドルの経済援助を約束した。こうして北東アジアの西側陣営としての足場を固めた上で訪米。18日ワシントン・ポスト社主グラハム女史の朝食会に招かれた中曽根は、「有事の際は日本列島を敵性外国航空機の侵入を許さないよう、周辺に高い壁をもったようなものにする」この発言を通訳が「不沈空母」と意訳したという。

中曽根はワシントンに鬱積していた対日不信を吹き飛ばす狙いから同日レーガン大統領との会談で「日本は太平洋を挟む運命共同体」との認識を表明。ここに2年前の鈴木首相の軍事同盟否定発言は完全に補正された。日本はその後P3Cを百機以上購入。

米国がオホーツク海に潜むソ連の潜水艦を攻撃するとすれば、それは戦争の初期の段階である。米ソ開戦初期にソ連は米国の攻撃以前にP3Cを配備する日本の米軍基地を攻撃するであろう。P3C購入は単にお金の問題ではなく日本が途方もない危険な道をいとも簡単に選択したことになったのである。

83年10月12日田中角栄に対するロッキード事件の一審判決が東京地裁であった。受託収賄罪で「懲役四年・追徴金五億円」の実刑で田中は控訴したが、野党は田中に対する議員辞職勧告決議案の優先審議と早期解散を主張した。国会は一カ月余り空転し、衆参両院議長の斡旋で中曽根も解散を決意。11月28日解散。12月18日投票となった。

結果は三度目の自民党公認当選者過半数割れであった。無所属からの入党者9名を合わせても259。議席率はやっと50.7%であった。敗因は田中判決と、その田中を後ろ盾とする中曽根の政治姿勢にあるとされたが、田中自身は選挙区で22万票という首相時代にも得られなかった大量得票を記録した。

中曽根は12月24日「いわゆる田中氏の政治的影響を一切排除する」という総裁声明を発表しなければならなかった。それにより抗争再燃は避けられた。

新自クは前回の12から8議席に減ったが、自民党統一会派をつくることに合意し田川誠一代表が第二次中曽根内閣に自治相で入閣した。自民党が8人を必要としたのは、予算委員会で委員長を除いても与党が過半数を占められるからである。


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