P3C購入の裏事情

鈴木善幸首相は、官房長官宮沢喜一の補佐によりほぼ順調に政権を担当。81年3月16日行財政改革のための臨時行政調査会(第二臨調)が元経団連会長・土光敏夫を会長として発足。臨調は83年3月14日増税なき財政再建、超緊縮財政の堅持等を柱とする最終答申を次の中曽根康弘首相に出して解散する。

鈴木は81年5月4日に訪米してレーガン大統領と会談。8日発表した共同声明について、帰国後「会談内容を反映していない」と発言。共同声明は日米が同盟関係にあることを初めて明記、軍事協力を前進させることに合意したと読み取れるものだったが鈴木はこれを否定。このため外相伊東正義は16日引責辞任した。

鈴木の同盟問題の背後には深刻な動きがあった。実は70年代末からソ連オホーツク海原子力潜水艦を配備。この潜水艦からミサイルを発射し8000キロ離れた米国本土を核攻撃できるようになり、米国はソ連の潜水艦を攻撃できるP3C(対潜哨戒機)を日本に大量に買わせ、ソ連の潜水艦を発見する役割を日本に押付けようとしていたのである。

米国は本当の事情を説明せず「日本は中東から石油を輸入している。それを運ぶ航路、シーレーンソ連が攻撃する恐れがある。これを防ぐためにはP3Cを買う必要がある」と説明。だからこの時期に突然、米側から同盟という言葉が首脳会談に出てきたのである。日本政府(中曽根内閣)はシーレーン防衛という名目のもとP3C購入を決定する。

鈴木は82年秋の任期終了後も再選は確実とみられていた。ところが総裁選の立候補受付けが始まる直前の10月12日突然不出馬を発表する。後継総裁は話合いで選ぼうとしたが、例によって揉めた末、10月22日主流派に推された中曽根が、首相に中曽根、総裁に福田という総理・総裁分離案を蹴ったことで壊れ、中曽根、河本敏夫、阿倍晋太郎、中川一郎の四人の間で予備選が行われることになった。

11月24日の開票結果は中曽根が有効投票の57.6%を得る圧勝であった。ここでも田中派の圧倒的な力が誇示された。大平、鈴木、中曽根と三代の首相が田中の力によってその椅子に座ったことは、田中のキングメーカーとしての権勢を内外に印象づけるもので、日本の政治はその闇将軍に牛耳られていたのである。

11月27日に発足した第一次中曽根内閣の組閣では、田中派後藤田正晴官房長官になり、同派から七人が入閣した。ロッキード事件灰色高官の二階堂進が幹事長に留任し、福田派の灰色高官加藤六月も入閣。


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