大平首相の死

大平首相は、与野党伯仲から脱出し安定政権を確立しようと衆院解散・総選挙に踏み切った。79年10月7日の投票結果は自民党の再びの大敗で、保守系無所属の10人を入党させて過半数+2とした。新自由クラブは−14の四議席へ転落。敗因には大平が一般消費税の導入に熱意を示したことや、鉄建公団のカラ出張、ヤミ手当等一連の不正経理が明るみに出たことであった。

この敗北で福田赳夫三木武夫中曽根康弘らは大平の退陣を求めた。辞める必要はないと言った派閥領袖は田中角栄だけであった。反主流派は勝ち目のない両院議員総会での総裁選を避け、衆院本会議の首班指名選挙に同じ自民党から大平、福田が立って争うという珍事が起きる。一回目の投票では野党各党首を凌いで一位大平、二位福田となり決選投票で大平が辛勝し続投決定。現外相園田直は大平に投票し福田派から除名された。

首相指名のあとも自民党内は幹事長や閣僚の人事でもめ続けケリがついたのは11月16日であった(40日抗争)80年5月16日社会党から内閣不信任案が提出され、福田、三木両派が本会議を欠席し、不信任案は可決。大平は5月19日衆院を解散(ハプニング解散)6月22日史上初の衆参同日投票(ダブル選挙)となった。参院選公示の5月30日夜、大平が心筋梗塞で倒れ6月12日死去。投票結果は両院で自民党が大勝した。新自クは12人に回復。

欧米では党首が誰になるか決まっていない党が大勝したことに奇異の感を持った。しかし日本人にとって不思議ではなかった。大抵の人々が大平の死によって自民党に同情票が集まったからだと考えたからである。実態は大都市にいつも眠っている常時棄権層が40日抗争、ハプニング解散、首相の死という異常な事件続きに関心をそそられ投票所に足を向けたのが大勝の理由である。

大平の後継者はおおかたの見るところでは、中曽根、78年11月三木派を引継いだ河本敏夫、大平派の宮沢喜一の三人の内の誰かであろうという予想であった。しかし大平が死で贖った安定多数の自民党は、大平派の者が引継ぐのが当然という派閥論理から宮沢が有力になる。

ところが自民党の出した結論は大平派の番頭、鈴木善幸であった。鈴木は党総務会長を10回も務め、派内だけでなく党内の取りまとめ役としても適任との声が挙った。大平派の大勢に田中も同調。大平・田中勢力の宿敵福田まで鈴木を支持した。80年7月15日鈴木は自民党両院議員総会で満場一致、総裁に選ばれた。

党内には72年の佐藤後以来の凄まじい派閥抗争に厭戦気分が広がっていた。大平の死はその気分を決定的にした。福田もそれに逆らえなかった。鈴木の首相としての指導力・見識などは考慮の外だった。それ程党内は派閥抗争に疲れ切っていたのである。


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