日米同盟

78年11月1日自民党初の全党員が参加する総裁選予備選挙が告示された。福田赳夫首相は大福密約に従って辞意を表明するどころか「世界は福田を求めている」と政権継続意欲を表明、大福戦争に突入する。11月6日園田直外相はこの密約を暴露、非は福田側にあることを明らかにしたため福田派内から裏切り者扱いされる。

「貴方の一票で総理大臣を選べる」の宣伝で党員には150万人、党友には17万人という多数が登録。しかしこの党員達は各議員の後援会員や後援企業の従業員で派閥に属する議員の指示通りに投票する人々で、投票資格とされた年1500円の党費2年分完納も議員らの立替が多かった。結局、党員は派閥に系列化し党員集めと票買いに積極的な派閥が有利となった。

田中角栄派はそこに力を尽くし、その支援を受けた大平は11月26日の開票で、福田優勢という大方の予想を覆して圧勝した。福田は議員らによる本選挙を待たずに辞任。12月7日に発足した大平内閣は、福田内閣の末期に浮上した有事立法を認めないハト派ぶりを見せた。

有事立法問題は7月19日統幕議長・栗栖弘臣が「緊急時の法律のない我国では、有事の際自衛隊が超法規的に行動することもあり得る」と発言したことで起きた。防衛庁長官金丸信は、文民統制を破るとして栗栖を解任。福田はその研究を防衛庁に指示していたが大平首相によって、研究することさえ否定されたのである。

78年12月17日OPECは79年に原油価格を段階的に14.5%まで引上げると発表。12月26日にはイランでホメイニの指導する革命が起き石油生産が止まり、国際石油資本各社は79年1月17日日本への原油供給を削減すると通告。第二時石油ショックである。円安とも重なり日本経済にはインフレ圧力が強まったが、総需要抑制等で凌ぐことができた。

79年6月28日には先進国首脳会議(サミット)が東京で開催されることになり、米国から大平首相に対し事前に訪米するようにとの意向が伝えられ、大平は5月に訪米し2日カーター大統領との間で日米首脳会談が行われた。

席上大平は「日米同盟関係」という言葉を使い「日本は良きにつけ悪しきにつけアメリカを支持し良きパートナーとしての役割を果します。何でもご相談下さい」と述べ、この時初めて日米同盟という言葉が正式に登場し、吉田茂池田勇人ラインを継承した対米追随路線が敷かれるのである。


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