大福密約

76年8月17日2億円を積んで保釈された田中角栄田中派の怨念が三木武夫首相に向けられ、次期政権への目論見のある大平正芳福田赳夫がこれに同調。19日には三木派と幹事長中曽根康弘の派を除く全派閥が「挙党体制確立協議会」(挙党協。船田中会長)をつくり277人の衆参両院議員が署名して党大会の開催を求めた。

三木はこの動きに批判的な世論を背景に挙党協と渡り合い、衆院議員の任期の終る12月まで衆院を解散しないことと引換に9月臨時国会の召集を認めるという妥協が成立する。挙党協は10月21日三木総裁の退陣を決議、後継に福田を推薦。福田は11月5日副総理を辞任し、自民党は三木対反三木に分裂して総選挙に入る。

この裏側でポスト三木を巡って大平と福田両派との間で猛烈な綱引きが行われた。大平派は総裁選を行えば田中軍団の支持で絶対勝てると踏んでいたが、福田派は財界人を仲介にして話合いで福田政権づくりを目指し、福田政権の任期を3年から2年に短縮し、その間党務を大平に一任することで大平の妥協を引出した。大福密約である。

12月5日投票の総選挙の台風の目は新自由クラブだった。新自クは田中逮捕以前の6月25日腐敗と決別し新しい保守主義を創造するとして自民党を離党した河野洋平田川誠一西岡武夫山口敏夫、小林正巳の衆院議員と有田一寿参院議員の6人で結成した新党で、この選挙では一挙に新自ク・ブームが起き18人が当選した。自民党は大敗し、無所属当選者を入党させて260議席とし三木は12月17日総裁を辞任した。12月24日福田内閣成立。

この時期の米国は75年には、米国が支援していた南ベトナムサイゴンが陥落し77年1月に就任したカーター大統領は、在韓米軍の削減を発表し明確にアジア離れを開始。米国が日本にかけ続けてきた圧力が一時中断されます。そこで福田は全方位平和外交を展開。77年8月福田は東南アジア諸国を訪問し18日福田ドクトリンを発表します。

72年の日中国交回復後、両国の関係を深める日中平和友好条約を結ぶ機運は熟していた。78年8月園田直外相が訪中し黄華外相と会談し12日調印され、中国副首相訒小平らを東京に迎えて78年10月23日条約批准書を交換。


レース結果共鳴チェック