金融ビッグバン

金融ビッグバンとは証券・金融市場の護送船団方式を廃止して、規制緩和、自由化、競争化を図ることである。86年英国で断行された金融大改革にならって名づけられ、96年11月橋本首相が打出し、97年6月に証券取引審議会、金融制度調査会、保険審議会が取り纏めた最終報告で大筋が決まった。結果は無残だった。日本の行政が外資に手を貸し、我国の金融機関は次々外資の軍門に降ることになったからである。

日本市場が閉鎖的で規制が多く外資が参入しづらい状況であったが、90年代に入り日本の株価と地価が下がったことは、日本買いのチャンスとなった。出店のコストも投資のコストも大きく下がった。しかも日本の金融機関はバブル崩壊で体力を損ねている。これ以上ない絶好のチャンスだったのである。

ロックフェラー系のシティバンクは当時、預金残高10万円未満の顧客からは月2千円の口座手数料をとり、ATMの24時間無料サービスを強調したが、実は他の手数料は邦銀より高いのである。金融ビッグバンはダメな金融機関を淘汰しただけでなく、旨みのない顧客も淘汰するのである。採算の悪い地域から金融機関が消えた。また貸出金利は低下したが預金金利はゼロ金利に等しい。無料だった両替も一部有料になった。

クレディスイス銀行や米国資本のクレスベール証券が売った金融商品は、損失を先送りしたい企業や、不良債権を隠したい金融機関にとって魅力的に見えたが、巨額の利益を挙げたのは外資だけで、日本側は巨額の大損を出した。いずれも初めから仕掛けられた詐欺であったことが発覚し、摘発され形式的な処分を受けた。普通の国なら、外資系には厳しく当たるのが常道だが、日本は全く逆なのである。だから、外資は日本を舐めきってやりたい放題。

大損を出した企業にヤクルトがあった。国税庁の幹部熊谷直樹が同社の副社長に天下ったが、コロリと騙されただけでなく数億円のリベートを受取って脱税していたことまで露見した。(ヤクルト・デリバティブ巨額損失事件)米国では79年に金融政策が金利から通貨供給量重視に転換されて、金利・為替の乱高下が起ったとき、そのリスク回避策としてこれらのデリバティブ商品が現物市場を上回り、脚光を浴びるという背景があったのである。

生保でも損保でもない医療・介護保険という第3分野がある。米国の圧力で、第3分野への参入は外資しか認められていなかった。ビッグバンが始まっても変わらなかった。日本の保険会社に許された自由化は、生保と損保の相互乗り入れだけで、第3分野の自由化は01年からであった。

日本政府は88年BIS規制導入を決め、92年から適用されることになった。アメリカンスタンダードに過ぎないBIS規制は、外資が日本の金融機関を買い叩くための最大の武器として使われた。BIS規制がバブルとは無関係な不良債権を産みだし増加させた。加えて米国格付け会社ムーディ−ズは日本の大手銀行の格付けを年々引き下げ96年までに半数をBランクに格下げした。住専処理で峠を越えつつあった不良債権問題は一気に深刻化した。


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